溝口秀勝(みぞぐち-ひでかつ)は、尾張国中島郡西溝口村(稲沢市西溝口町)の溝口城(豊場城)主・溝口勝政の長男として1548年に生まれました。
蜂須賀城や勝幡城からもほど近いところです。
母は竹田氏の娘と伝わりますが不詳となります。
幼名は溝口竹丸で、元服すると溝口金右衛門尉定勝と称しました。
溝口氏は、甲斐源氏・武田氏(逸見氏)の庶流で、鎌倉時代、1221年の承久の乱にて軍功があり、美濃国大桑郷に所領を得たようです。
その後、応永年間(1394年1427年)に尾張へ移り、岩倉城の織田氏に仕えました。
戦国時代となると、織田家の重臣・丹羽長秀に従っています。
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溝口家の家臣としては、槍持ちで60石の入江九左衛門と、近江の速水三右衛門が最古参です。
武功を挙げると織田信長に認められて、織田信長の直属家臣となり、1581年、5000石にて若狭・高浜城主に抜擢されます。
旧領主・逸見駿河守の遺臣からは香川民部、寺井主馬を配下に加えました。
また、柿本蔵人、窪田与左衛門、大津氏、三宅氏、中西氏らが仕官して家臣に加わっています。
溝口秀勝の正室は長井源七郎の娘・瑞雲院で、1582年に嫡男・溝口宣勝(みぞぐち-のぶかつ)が生まれています。
1582年、明智光秀による本能寺の変にて織田信長が横死したため、以後は、羽柴秀吉に従いました。
織田家の家臣であった加藤清重、坂井式部らが新たに家臣となっています。
1583年、賤ケ岳の戦いのあと、丹羽長秀が123万石にて北ノ庄城に入ると、丹羽長秀の与力として、加賀・大聖寺城4万4000石となっています。
このとき、柴田勝家の遺臣である丹羽秀綱、脇本仁兵衛を配下としました。
1585年4月に、丹羽長秀が死去したあと、丹羽家を継いだ丹羽長重が若狭15万石に転封となると、北ノ庄城に入封した堀秀政の与力となります。
1586年、従五位下・伯耆守となり、豊臣秀吉から豊臣姓を与えられたほか、偏諱を受けて「秀勝」と改名しました。
独立大名として認められた証でもありますね。
九州征伐や小田原の戦いにも従軍し、朝鮮攻めの際には、肥前・名護屋城の守備にあたっています。
また、大坂城の普請や、京都・東山大仏殿の造営などにも携わりました。
慶長3年(1598年)には、上杉景勝が会津に移ったあと堀秀治が春日山城に入り、溝口秀勝は越後・新発田城にて6万石となりました。
ちなみに村上義明(村上頼勝) は村上城9万石となっています。
このとき、家臣たけでなく、加賀の商人・職人・菩提寺の専光寺、大麟寺など、古くは越前時代の農民まで、9000名ともされる人々が新発田に移ったとされます。
また、新発田入りの際には、寺泊にて野武士300名の襲撃を受けましたが、私費で傭兵を雇っていた商人・菊屋を営む五十嵐新五郎の援軍が現れて、勝利したとされます。
また、会津藩の旧領主蒲生家の遺臣から、森氏、奥村氏、矢代氏、熊田氏らを配下に加えています。
そして、新発田城の普請や城下町の建設、湿地帯となっていた未開の地を開墾して新田にし、河川は治水するなど尽力しました。
現在、白鳥が越冬する湖として有名な「瓢湖」(ひょうこ)も、新発田藩が設けた人造湖です。
このように新潟の穀倉地帯へと大きく発展し、溝口氏は交代なく新発田藩のまま維新を迎えますが、幕末には石高も20万石まで伸びたと言います。
1600年、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方し、越後にて上杉景勝・直江兼続が煽動した上杉遺民一揆の鎮圧に奔走しました。
そのため、徳川家康から所領を安堵され、新発田藩の初代藩主になっています。
慶長15年9月28日(1610年11月13日)、新発田において死去。享年63。
自らが開基した新発田城下の淨見寺(寶光寺)に葬られました。
また、新潟県新発田市諏訪町に溝口秀勝の墓所があります。
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加賀から新発田に入る際に助けてもらった五十嵐新五郎に関しては、下記のような逸話もあります。
警護のために傭兵を雇っていた五十嵐新五郎は、会津の上杉家に繋がっていて、越後でゲリラ活動を行っているのではと疑われて、春日山城の堀秀治に捕縛されてしまいます。
その五十嵐新五郎の窮地に、溝口秀勝は恩返しと、春日山城に出向いて説得しましたが、上杉旧臣対策に頭を悩ませていた堀秀治は聞く耳を持ちません。
そのため、溝口秀勝は手勢にて五十嵐新五郎の牢を取り囲むと言う、反乱とも受け取られる実力行使に出ました。
堀秀治は、ようやく折れると五十嵐新五郎を解放し、溝口秀勝に預けたと言います。
この「恩に報いる」と言う心意気は、忠臣蔵・赤穂浪士でおなじみ新発田藩士・堀部安兵衛へと受け継がれていきます。
溝口家と直接の血縁関係はありませんが、堀部安兵衛の母は、溝口盛政の6女。
この溝口盛政は、溝口秀勝の5女・糸姫を正室に迎えた、丹羽家一族で、溝口姓も賜ったと言う事になります。
京風の廻遊式庭園「清水園」からは、新発田藩の繁栄ぶりも、伺えます。
・丹羽長秀~織田信長と豊臣秀吉から厚い信頼を受けた重臣
・丹羽長重~丹羽長正~丹羽秀重の生涯
・堀秀政~かなり有能な武将なれど注目されていないのはもったいない?
・大聖寺城~佐久間盛政が改修した北陸の要
・直江兼続~戦国の上杉家を支えた智勇兼備の名将
・堀秀治 優秀ではなかったが家臣に恵まれた大名
・春日山城 戦国の息吹を感じ妄想も広がる山城
・新発田城 半分残念だけど素晴らしい日本100名城
・清水園 越後を代表する大名庭園と足軽長屋
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