朝廷と直接対決!!足利尊氏の戦い 室町幕府成立へ

室町幕府成立へ

鎌倉幕府の滅亡と足利尊氏の台頭

室町幕府なんて鎌倉幕府の後釜」、「室町幕府が弱小であるせいで戦国時代を招いた」…、鎌倉幕府や江戸幕府に比べて室町幕府は見劣りするイメージが強いって人も多いでしょう
一方で、武士と朝廷の位置付けを決定的なものにしたのも室町幕府です。
本記事では、室町幕府初代将軍足利尊氏の、鎌倉幕府後釜にとどまらない新たな幕府の体制を築くきっかけにスポットを当てながら、室町幕府の果たした大きな役割の一つを見ていきます。


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弥生時代に農業が始まったことをきっかけに、強い集落が弱い集落を吸収していった挙句、ついに日本列島が一つの政権でまとまりました。
その政権の頂きに天皇とその取り巻きである朝廷が君臨したわけですが、「日本列島は天皇とその取り巻きである朝廷のもの」という政治の理念は奈良時代に行き詰まり、日本列島各地の庶民たちの「何もしてくれない朝廷よりも自分たちの主人こそ大事、その主人を守る有力武士こそ大事、その有力武士のまとめ役である将軍様が大事」という支持で鎌倉の武家政権(鎌倉幕府)は台頭しました。

一方で、朝廷のある近畿地方や西国の多くでは、朝廷支持の庶民がたくさんいました。
鎌倉幕府は、東国の庶民から支持を集めつつも、名目上は朝廷の家来であり、西国に実質行政権のある朝廷と東国に実質行政権のある鎌倉幕府とですみわけをしていました。

こうした中、元寇をきっかけに、東国庶民たちの、鎌倉幕府支持は揺らぎ始めます。

教科書等では「元寇に際し庶民とその主人である御家人は、農場を担保に借金をしてまで出陣したものの、元の土地を得たわけでないため恩賞を得られず、借金を返済できず担保の農場は取られた。
先祖伝来の農場を鎌倉幕府が保証してくれるから鎌倉幕府は庶民の支持を得て成立していたのに、鎌倉幕府が庶民の土地を守ってくれなかった。
それで、鎌倉幕府は庶民からの支持を失い、滅亡に向かった」、とあるのが普通です。

異論はたくさんあります。
「元寇で出陣したのは九州の武士が中心だから、恩賞問題で鎌倉幕府に反旗を翻すのは九州の御家人のはず。
それなのに、鎌倉幕府討幕の中心メンバーは、新田義貞や足利尊氏はじめ東国武士ばかり」等々。

本記事では、その辺りは触れずに進みましょう。(もしかすると、そんな記事をテーマに今後記事を書くこともあるかもしれませんので、その時は是非ご覧ください。)

いずれにせよ、北条氏を実質権力者とする鎌倉幕府の体制は庶民たちの支持を分けます。
北条氏支持派とそうでない庶民たちに分裂することで、鎌倉幕府の力は落ちてしまいます。

鎌倉幕府がダメならばと、軍務を中心に鎌倉幕府の重要な役を担っていた足利尊氏(当時は高氏)の動向に、庶民たちの注目は集まります。

その頃、西国で根強い支持を得ていた朝廷でトップの座を盤石にしようと、後醍醐天皇が動いていました。

(後醍醐天皇が朝廷のトップの座を盤石にしようとしていた理由等も本記事では触れません。ただ、鎌倉幕府の決めた両統迭立に不満があったことや日本列島全域を支配下に入れようとしていた野心があったとだけ書いておきましょう。)

こうして、後醍醐天皇支持者や足利高氏支持者だけでなく、北条氏をトップとする鎌倉幕府の体制に不満のある庶民たちは、後醍醐天皇や足利高氏の下に結集を始めます。


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後醍醐天皇が鎌倉幕府支配下の土地にも支配権を及ぼそうと動き出したことをきっかけに足利高氏もまた鎌倉幕府に反旗を翻し、後醍醐天皇と足利高氏は後醍醐天皇をトップに連携をします。

結局、足利高氏は後醍醐天皇をトップとする鎌倉幕府討幕軍の上級役職に就きます。

一方で、鎌倉幕府支持者も黙っておらず、鎌倉幕府滅亡後も鎌倉幕府支持者で結集して、乱を起こします(中先代の乱)。

中先代の乱が関東地方で勃発した時、高氏は後醍醐天皇の配下として京都にいました。関東は、後醍醐天皇の皇子と高氏の弟をトップにして行政は行われていたため、後醍醐天皇の皇子と高氏の弟で反乱鎮圧に乗り出しますが、鎮圧しきれず命の危険に立たされます。

弟の窮地と言うこともあり、高氏は京都から救援軍のトップとして関東地方に駈けつけます。

高氏の加勢もあり北条氏支持者の残党を倒すのですが、高氏はその後も関東に残り、中先代の乱鎮圧で活躍した部下たちに、高氏からの恩賞を与えていました。

その頃、後醍醐天皇をトップとする新体制は、京都で支持を落としていました。


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足利尊氏、後醍醐天皇との決別

後醍醐天皇をトップとする新行政体制である建武の新政は、教科書等では鎌倉幕府成立で縮小した朝廷権力の拡大を目指したという印象もありますが、実際は朝廷からの支持もありませんでした。

朝廷政治といえば、天皇をトップに〜省等の平安京の役所があり、その下に日本列島各地に国司がいるというスタイルですが、後醍醐天皇はこの体制の刷新も強行にすすめていました。

要するに、旧来の武士も貴族も後醍醐天皇新体制の下では活躍できる場もないと悟り、離れていったのです。(もちろん、後醍醐天皇を支持する人たちも一定数います。日本列島大勢の話しです。)
鎌倉幕府は信用できないからと後醍醐天皇に従ったものの、どうにも後醍醐天皇新体制は斬新すぎるとばかりに、後醍醐天皇支持者は減少の一途を辿ります。

一定数の庶民たちが、新たにトップにつくべき人物と考えたのは、足利尊氏でした(高氏は、後醍醐天皇から活躍が認められ、後醍醐天皇の諱から一時を賜り、尊氏となった)。

こうして今度は、後醍醐天皇支持者と足利尊氏支持者の間での争いになります。

後醍醐天皇は、関東から京都に戻らずに関東で新体制を作っている足利尊氏に対して、討伐軍を送ります。

尊氏は、天皇を相手に戦はできないとして戦線を離脱しますが、後醍醐天皇政権の下では日の目をみない人たちが抵抗を続けます。それ見て、尊氏は戦線に復帰します。

尊氏の戦線復帰以降、関東の庶民とその主人である下っ端武士たちの活躍は目覚ましく、後醍醐天皇軍を関東から追い出します。

さらに、後醍醐天皇軍を追撃し、京都に入京を果たします。


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京都へ

足利尊氏をトップとする軍勢は、後醍醐天皇軍を関東から追い出して後、関東地方支配を盤石にし、鎌倉幕府に習い、西は朝廷のもので東は将軍のものとするという体制をつくることもできましたが、足利尊氏は京都に攻めのぼりました。

尊氏が鎌倉にとどまっていても、後醍醐天皇は天皇権威を用いる等して支持者を拡大して、再び尊氏を攻めてくることが予測されました。
また、関東を拠点とする尊氏の背後の東北地方には、後醍醐天皇の忠実な支持者北畠氏がいました。
この時の尊氏は、関東地方の庶民たちにとっては生活を保護してくれる英雄でしたが、日本列島全体で見ると後醍醐天皇に逆らう反逆者でした。
いつ、後醍醐天皇に従った者たちからの攻撃を受けるか微妙なところでした。
そうしたことから、後醍醐天皇との今後の争いを優位に進めるべく、後醍醐天皇支持者拡大防止のためにも都で後醍醐天皇の動きを監視するべく、京都に進軍したとされます。

そして、後醍醐天皇との京都での戦いを経て、尊氏が後醍醐天皇でない新天皇を擁立し、その天皇から征夷大将軍に任命される形で、鎌倉幕府の後継者としての地位を保証されました。
こうして尊氏は、ただの実力者から正式な肩書を得た身分ある実力者になったのです。
これは、「尊氏さんも後醍醐天皇もどっちが覇権を握っても関係ない」という日本列島大多数の武士たちの支持を集めるきっかけになります。


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現代でもそうですよね。
ある企業でAさんとBさんと二人の社長候補がいます。
それぞれ、側近たちは自分の上司が社長になってくれないと自分たちも出世できないので、それぞれ、Aさんを社長にしたいBさんを社長にしたいと奔走します。
一方で、大多数の社員は、Aさんが社長になろうBさんが社長になろうとどうでもいいですよね。
どっちが社長になったって、自分は出世するわけでも給料が上がるわけでもないからです。
ただし、避けたいのは粛清です。
AさんとBさんの争いに決着が付いた後、Aさんが勝利した場合、Bさんを支持していたならAさん派から「お前Bの味方していただろう、反逆者め、一生下働きしてろ」と出世路線から外されて日の目を見ない仕事をさせられる可能性があります。
だから、どっちが勝ってもいい人たちは、勝ち馬に乗りたいのです。
そうなると、ただの実力者なんて怪しいです。
やはり、大多数の庶民は天皇という日本列島最強の権威者を支持するだろうと算段します。
そう思えば、天皇に反旗を翻す者はいないだろうと、後醍醐天皇支持者で日本列島はあふれ出します。
だからこそ、尊氏は、日本列島最強の権威である天皇から「お前に日本列島を預けた」と言ってもらったり言ってもらったことを世に知らしめる必要があったのです。
だからこそ、正式な天皇から征夷大将軍に任命される必要があったのです

一方、後醍醐天皇は京都から出て、奈良で新たな朝廷を作り、後醍醐天皇支持者とともに新体制を作りました。
こうして、尊氏に守られた北朝と後醍醐天皇の南朝の二つの朝廷が成立する南北朝時代に突入しました。


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重要なこと

ここで重要なのは、北朝は尊氏抜きで成立できないこと、一で方尊氏も北朝がつぶれると自分を征夷大将軍に任命した者がいなくなる、つまり自分の身分保障がされなくなることです。

これは、軍事力や経済力等実質的権力は戦国大名等現場の武士たちが遂行しつつ、その武士の身分、つまり豊臣秀吉は関白だの徳川家康は内大臣だの身分を保証するのは朝廷だという体制にほかなりません。

鎌倉時代に朝廷がまだ実質的権力で奮っていたのと違い、室町時代は実質的権力を持つ朝廷の南朝を京都から追い出すことで、武士と朝廷の分業がなされたのです。

その根拠こそ、朝廷のおひざ元である京都に武家の棟梁である幕府が鎮座したことにあるでしょう。

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