江口正吉 丹羽家を支えた忠義の軍師

江口正吉

丹羽家は織田信長が存命していた頃の織田政権で無くてはならない存在でした。しかし、当主の丹羽長秀が亡くなると没落。
家臣たちの相次ぐ離反が起こります。
そんな中であっても丹羽家を支えた忠義者がいました。
その人物は江口正吉(えぐち-まさよし)で丹羽家の軍師として活躍していました。


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今回は忠義の軍師である江口正吉の生涯を追ってみたいと思います。

若き日の正吉

正吉の生まれは不明ですが、近江国出身で幼い頃から丹羽長秀に仕えます。記録上では正吉の初めての戦は天正元年(1573)に起きた小谷城の戦いでした。

この戦で正吉は茜色の弓袋の指物をして戦いました。そして、高台から戦の様子を見ていた織田信長と羽柴秀吉、柴田勝家が正吉の武働きが周りよりも目覚ましいことを見つけます。

その時まだ正吉の知名度が低かったので、秀吉と勝家は正吉のことを知りませんでした。

しかし、信長は正吉のことを知っていたので、武功の褒美として自身の笄をあげたという話があるくらい正吉は武勇が優れていました。

若さゆえに長秀に叱られる

天正10年(1582)に織田信長が亡くなり、その死後に行われた清州会議以降の正吉は京都奉行の1になります。また翌年に起きた賤ヶ岳の戦いでは長秀に従い、羽柴陣営につきます。

合戦の最中、長秀は桑山重晴(くわやま-しげはる)が守備していた賤ヶ岳砦を救援すべく2000の軍勢を率いて、向かいます。しかし、無謀と判断した正吉は丹羽家の重臣である坂井直政と共に止めようと長秀の説得を試みます。


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2人の説得により、長秀は救援に行くのを止めるかと思いきや、「直政は経験豊富な老練の者だから言うのはわかるが、若年である正吉にはそのことを言う筋合いはない。」と正吉は叱られることになりました。

結局、長秀は賤ヶ岳砦の救援に向かい、桑山隊と共に守備に成功します。その活躍によって正吉は加増されることになりました。

長秀死後の丹羽家を支える

天正13年(1585)正吉の主君である長秀が亡くなると、丹羽長重が丹羽家の当主となります。長重の代になると、123万石あった領地は4万石となってしまいます。

ここまでの大減封になってしまったのは同年に起きた越中征伐の際の家臣の内応の疑いと天正15年(1587)に起きた九州征伐における家臣の狼藉が大きな要因です。

加えて、秀吉自身も100万石あった丹羽家の国力を削ぎたかった思惑もありました。


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相次ぐ減封によって没落した丹羽家は、更に長束正家上田重安戸田勝成(とだ-かつしげ)など多くの家臣が秀吉に召し上げられるか丹羽家を去っていきました。

そんな中であっても正吉は丹羽家を離れることはせず、長重に付き従います

そして、天正18年(1590)に起きた小田原征伐での功績により長重が加賀国小松12万5千石に加増されると、正吉は1万石を有する家老となりました。

関ヶ原の戦いとその後

小田原征伐より10年後の慶長5年(1600)に勃発した関ヶ原の戦いでは長重は西軍に味方します。そして、東軍に与し加賀南部を攻めていた前田利長金沢城撤退を阻止するために追撃しました(浅井畷の戦い)。

この合戦で大将を任された正吉は地の利を生かし、3000人の軍勢を率いて前田軍を攻撃。前田軍には金沢城への撤退を許してしまいますが、2万5000いた軍勢に大打撃を与えることに成功しました。

ちなみにこの合戦は「北陸の関ヶ原」と呼ばれています。

しかし、浅井畷の戦いでの奮戦空しく、本線で西軍が壊滅したことにより長重は東軍に降伏し、改易処分を受けることになります。


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主家の改易後の正吉は結城秀康の家臣となりますが、慶長8年(1603)に長重が1万石の大名として復帰すると、長重の元に戻りました。

そして、寛永4年(1627)に長重が白河へ移封されます。その後に、名城と言われている白河城を伊達政宗が「朝飯前に落せる。」と片倉景綱(片倉小十郎)に言ったのに対して「この城には江口正吉と呼ばれる名将がいるので、昼飯までかかる。」と言ったので、正吉の名将ぶりが多くの者に知られていたと考えられます。

最後まで丹羽家を支えてきた正吉は寛永8年(1631)に亡くなりました。

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