北条宗時の解説~石橋山の戦いで逃亡中に討死した経緯

北条宗時

北条宗時とは

北条宗時 (ほうじょう-むねとき) は、平安時代の終わり頃の武将で、生年は不明ですが、伊豆の豪族・北条時政の嫡男として生まれました。
母は不詳ですが、父・北条時政の最初の正室である伊東祐親の娘と推定され、幼名は北条若王丸でした。
兄弟姉妹には、北条政子北条義時阿波局北条時房などがいます。

北条宗時

北条氏のもとで流刑となっていた源頼朝が、1180年8月17日に挙兵して、伊豆目代・山木兼隆の屋敷を襲撃します。
この時、父・北条時政、弟・北条義時と共に、北条宗時(北條三郎)も参加して、軍勢を先導しました。


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その後、石橋山の戦いでは、8月23日、平氏の討伐軍(大庭景親、俣野景久、渋谷重国、海老名季員、熊谷直実ら)に、源頼朝が敗れて敗走します。
北条時政と北条義時は箱根の湯坂道を経て甲斐へ逃亡しましたが、北条宗時(北條三郎)は土肥から桑原に降りました。
そして、伊豆・平井郷(静岡県田方郡函南町平井)を経由して、早河の辺りに至りますが、平氏方の伊東祐親勢に包囲され、小平井久重に矢を射られて討死したとされます。(没年1180年8月24日)
また、同じルートで逃げていた 狩野茂光(工藤茂光)は、負傷して歩けないうえに、肥満のため馬に乗れず、輿では逃げ切れないと判断し、函南で自刃した模様です。(介錯は孫の田代信綱)
函南町の函南駅から、ほど近いところに、北条宗時の墓(下記写真)がありますが、1202年に、北条時政が、北条宗時を祀ったものと伝わります。

北条宗時の墓

狩野茂光の墓も隣りどうしになっており、この2人の墓を、地元の皆様は「時まっつあん」と呼ぶそうです。

異説としては、北条宗時が16歳の時に、合戦で右腕を切り落とされたため、家臣とともに信濃国安曇郡の仁科氏領にて隠居しましたが、その後没したともあります。


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ちなみに、北条宗時を討った小平井久重(小平井紀六久重)は、地元・平井郷の名主で、伊東祐親の郎党にも加わっていた模様です。
源頼朝が千葉に逃れたあと、勢力を盛り返して鎌倉を制圧すると、姿をくらましていたので、源頼朝は捜索させてようです。
小平井久重(こひらいのひさしげ)は、1181年1月6日、相模国蓑毛(秦野市の山の中)にて、工藤景光に捕らえられ、北條時政に引き渡しました。
小平井久重の身柄は、侍所別当・和田義盛に預けられると、北條宗時殺害を認めたので、逮捕された約3ヶ月後、腰越浜にて処刑となりました。
なお、名前に関しては、小平井の名主・紀六久重と言うのが正しい可能性もあります。

2022年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、北条宗時を俳優の片岡愛之助さんが演じられます。
そのドラマでは、善児と言う伊東祐親の下人が北条宗時を殺害するようです。

(参考)函南町立図書館

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