尾藤主膳こと宇多頼忠(うだ-よりただ)の父は尾藤重吉で、兄に尾藤知宣などがいる。初名は尾藤二郎三郎(尾藤久右衛門、尾藤主膳)と称した。
この尾藤家は、もともと信濃・中野牧が本拠で、小笠原長時に臣従していたが、武田信玄に敗れると所領を失い没落。
そのため、本拠を井伊直政の知行地に近い、遠江の引佐郡に移して堀川城を築き、今川義元に従ったと推定される。
しかし、織田信長との桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、父・尾藤重吉と長兄・尾藤又八郎は森可成を頼り、次兄・尾藤知宣は羽柴秀吉を頼ったが、宇多頼忠は引佐郡に残って、のち武田信玄に臣従した。
そして、1564年頃に、長女・山手殿を武藤喜兵衛(後の真田昌幸)に嫁がせたとする説がある。
※山手殿の出自には諸説あり。
1569年、徳川家康が3000にて堀川城の尾藤主膳、竹田高正、山村修理を攻めて、城兵・農民など1700を殺害したともある?
1575年、長篠の戦いで武田勝頼が大敗北すると、尾藤主膳(宇多頼忠)は兄・尾藤知宣(羽柴秀吉の黄母衣衆・大母衣衆250貫)を頼って近江・長浜城へ赴き、羽柴秀長の家臣に加わっている。
そして、羽柴秀吉や羽柴秀長の出世に伴い、自身も藤堂高虎に次ぐ13000石と重臣になり、1578年頃には次女・皎月院(うた)を石田三成に嫁がせた。
兄・尾藤知宣は四国征伐でも武功を挙げ、1586年、讃岐・宇多津5万石となっている。
その後、改易された仙石秀久の後継となり、軍監として黒田官兵衛や小早川隆景などの諸将を指揮し、九州征伐に挑んだが、根白坂の戦いにて藤堂高虎らの活躍により勝利するも、敗走する島津勢を追撃せず、好機を見逃したとして、羽柴秀吉の怒りを買い、所領を没収されてしまう。
兄・尾藤知宣(尾藤知定・尾藤知重・尾藤光房)は、伊勢に潜伏後、小田原攻めにて勝利した豊臣秀吉の前に剃髪して現れて、復帰を願い出たが許されず、下野に護送されると路上にて処刑された。
※那須で斬殺されたともある。
連座を避けるため、尾藤知宣の弟である宇多頼忠は、この時「宇多頼忠」と改名し、13000石を返上すると婿の石田三成のもとに身を寄せた。
1600年9月17日、関ヶ原の戦いにて石田三成が敗れ、佐和山城が攻撃にさらされると、宇多頼忠は子の宇多頼重、石田三成の父・石田正継、石田三成の兄・石田正澄らと共に自害して果てた。
また、石田三成の家臣・土田桃雲が、皎月院(うた)らを刺殺し、佐和山城の天守に火を放ったとされている。
なお、聚楽第の壁に秀吉の側室茶々の妊娠を皮肉る狂歌を書いたとされる尾藤道休は、尾藤主膳と縁続きだったようです。
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宇多頼次
宇多頼次(うた-よりつぐ)は、1590年に処刑された尾藤知宣(尾藤知定・尾藤知重・尾藤光房)の嫡子で、宇多頼忠に習って、姓名を宇多頼次と改名していた。
この宇多頼次は、石田三成の父・石田正継の養子となって、石田頼次と名乗り、真田昌幸の娘・菊姫を正室に迎えた。
なお、宇多頼次も、石田三成に殉じて、佐和山城で宇多頼忠らと共に自刃したとする説があるが、大坂城下の石田屋敷を警備していた事から死は免れて、のち寺沢堅高の家臣に加わったとする説もある。
次男・宇多知則は、のち細川忠利に仕えて島原の乱で討死しているが、子孫は熊本藩士として残っている。
宇多頼次の没後、真田昌幸の娘・於菊は、上田城に戻ったようだが、その後、滝川一積に再嫁した。
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コメント
コメント ( 1 )
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冒頭の文の、「尾藤主膳こと宇多頼忠の父は尾藤重吉」ですが、
主膳が百官名なので親子で付いたりと紛らわしいのですが、頼忠も重吉も没はそこそこはっきりしているので、
頼忠が主膳を名乗っていたとしても、「堀川城の尾藤主膳」は頼忠でも重吉でもないです。
・尾藤重吉は長男とともに近江で討死、重吉の次男が知宣。(これは資料がそこそこあり)
・尾藤重吉の兄が、「堀川城の尾藤主膳」とする研究がある。
くらいのようです。