饗庭局(あえばのつぼね)の父は田屋明政で、母は浅井亮政の嫡女・浅井鶴千代(栖松院)だが生年は不明。
父・田屋明政は、浅井氏の一族で、北近江・高島郷を支配する土豪であった。
浅井亮政の娘と結婚したのは、浅井亮政の婿養子として迎えられたためであったが、のちに浅井亮政の庶長子・浅井久政が浅井家の家督を継ぐことになったため、身を引いて姓名を「田屋」に戻したとされる。
しかし、当主の座を譲りながらも「大殿様」と家臣らからは慕われていたようだ。
姉に海津局(浅井政高の妻)がいる他、子には木村重成の番頭・内藤長秋がいる。
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浅井長政とお市の方の間に長女・茶々が誕生した際には、その乳母の1人となったようだ。
ただし、この頃、あいば殿(饗庭局)は15歳前後と考えられ、直接授乳した訳ではなく、乳母と言っても、血筋からで筆頭格の養育係であったようであるが、実態には謎が残る。
1573年9月1日、小谷城落城の際には、父・田屋明政は浅井長政を守って討死。
以後、浅井家の血をひく女性として、1589年の北の庄城落城も、ずっと茶々付きの高級侍女として生きる道を選んだようだ。
1598年、醍醐の花見には、茶々と共に和歌を残している。
「今日ここに人ともみゆきの山桜 あかず千年の春を重ねむ あい者」あいば殿(饗庭局)
「今日よりや花の色香も千年経む 君かみゆきの山桜かな かいつ」姉の海津局
1600年、石田三成の関ヶ原の戦いでも、京極高次が籠城した大津城へ、淀殿の使者として遣わされている。
この時は、高台院(北政所)が派遣した孝蔵主、毛利輝元と高野山からの使者・木食応其と共に大津城を開城に導き、豊臣秀吉の元側室・京極竜子を救出している。
また、京極高次の妻は、お初の方(浅井初)であった。
※京極家側の史料では、淀殿が大津城へ派遣したのは饗庭局の姉・海津局であるとされているが、入れ替わりで饗庭局も入った可能性はある。
淀君に近い順からの身分の高さは、大蔵卿局>二位局>正栄尼>饗庭局>梅津局である。
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1614年、方広寺鐘銘事件の際には、大蔵卿局とともに駿府城を訪問し、徳川家康と会見。
大坂冬の陣での徳川家との和平交渉でも、常高院(浅井初)と共に徳川家康の本陣を訪ねて、再度の血判を求めた。
1615年5月8日、大坂夏の陣にて豊臣家が敗れ、豊臣秀頼と淀殿が自害するとそれに殉じて、子の田屋長秋と共に自刃した。
淀殿と固い絆で結ばれていたともされ、三十二義士の1人にその名が見られる。
・小谷城の訪問記と小谷城の戦い~浅井家の滅亡・浅井御殿も
・浅井長政(詳細版)~初陣で3倍の敵兵力に勝利した勇将
・淀殿(淀の方、茶々)~豊臣家・我が子の為に生涯を全うした強き女性
・北ノ庄城(北の庄城)~北陸支配の柴田勝家とお市の方の居城
・大津城の戦い~京極高次と京極竜子~武田元明や京極高知との関係も
・大野治長~大阪城にて淀殿を最後まで支えた豊臣の忠義者
・清韓と方広寺鐘銘事件~文英清韓とは
・大蔵局/大蔵卿局と大野治房・大野治胤・大野治純
・木村重成とは~ 冷静さと勇敢・仁愛にあふれた若武者の最後
・彦根・宋安寺~淀殿の念持仏がある名刹
・大阪城の史跡巡り観光堪能2時間コースのご紹介
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