阿蘇惟豊と阿蘇惟将~阿蘇氏を繋いだ阿蘇神社の大宮司

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阿蘇氏

阿蘇惟将(あそ-これまさ)は、阿蘇惟豊の子として1520年に生まれました。

父・阿蘇惟豊(あそ-これとよ)は、阿蘇氏の18代となりますが、阿蘇家は代々、阿蘇神社大宮司を務めてきました。
阿蘇惟豊の官位は従二位・阿蘇大宮司ですので、朝廷とも縁が深かったことが分かります。

そもそも、阿蘇氏は(あそし)は『日本書紀』『古事記』にも出て来る神武天皇の第二子・神八井耳命(かんやいみみのみこと)が先祖だとする、かなり古い氏族です。
阿蘇氏は、火山である阿蘇山への神職を司ったと考えられます。
火山の神は国家の変災を予知する霊威があると信じられたいましたので、火山である阿蘇山の様子を阿蘇氏が国家運営する朝廷に報告していました。
そして、朝廷からの領地献上なども受け、阿蘇国造として繁栄したようです。


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このように、阿蘇氏は阿蘇神社の司祭と造営を掌るの「神主」だった訳です。
ところが、910年頃に登場した阿蘇友成(宇治友成)からは、祭事だけでなく、阿蘇地方の統治も行うようになり、司祭と造営に加えて社領をも管理する「大宮司」へと転化し、大宮司職を世襲しました。
そして、鎌倉時代の阿蘇惟宣の時には、武装した集団になっており、執権・北条時政から阿蘇惟次が阿蘇神社の大宮司を任じられています。
1207年に、阿蘇惟次が本拠を阿蘇南郷から矢部の浜の館(はまのやかた)に移したともされますが、その当たりは不透明です。

南北朝時代には、阿蘇惟時は南朝後醍醐天皇に味方して、護良親王足利尊氏らと京都・六波羅探題への攻撃にも参加しました。
1335、足利尊氏が鎌倉で新政府に反旗を翻すと、阿蘇惟時は菊池武重、上島惟頼、阿蘇品惟定らの阿蘇一族、大友貞載らの九州勢ら新田義貞の討伐軍に加わり、遠く箱根竹ノ下の戦いにも加わっています。

このように、熊本県菊池市の辺りを本拠としていた菊池武敏も南朝側として阿蘇惟直と共にあり、寝返った足利尊氏や少弐頼尚の軍勢と、1336年に多々良浜の戦い(たたらはまのたたかい)で大敗を喫しました。
阿蘇惟直は弟・阿蘇惟成とも肥前の小城まで逃れますが、追手に囲まれて家臣らと自刃して果てます。
そのため、阿蘇一族は安定しておらず、後継者を巡っての争いも耐えないです。

1507年になって、阿蘇惟長が菊池氏の代替わりに乗じて、菊池政隆の家臣らを寝返らせて隈府城に入り「菊池武経」と改名しました。

隈府城跡からの眺め

そして、菊池家の家督を相続し、肥後守護職にもなっています。
この時、弟の阿蘇惟豊が、阿蘇神社の大宮司職に就任したのです。

阿蘇惟豊

阿蘇惟豊(あそ-これとよ)は前述のとおり、阿蘇惟長(菊池武経)の弟として1493年に生まれました。
そして、阿蘇氏18代当主として阿蘇神社大宮司を兄から譲れらたと言う事になります。

しかし、兄の菊池武経は大友義鑑の傀儡に過ぎず、やがて菊池家の重臣らから命を狙われるようになり、隈府城から逃走して阿蘇惟長の名に復して矢部に戻ります。
阿蘇惟長は弟の世話になりましたが、弟に譲っていた阿蘇神社大宮司職を取り戻そうとして、薩摩・島津家の支援を受けて、1513年、弟・阿蘇惟豊を攻撃しました。
そのため、阿蘇惟豊は一時、日向へと逃れていますが、高千穂鞍岡の甲斐親宣の支援を受けると、1517年に阿蘇の本拠地を奪還しています。
その後、兄・阿蘇惟長と子・阿蘇惟前とは薩摩を頼り、姶良氏の援助を受けて堅志田城主となります。
1537年に、阿蘇惟長が死去したあと、1541年、御船城主・御船房行が薩摩の島津氏に通じて阿蘇惟豊に反旗を翻します。

この時、阿蘇惟豊の子・阿蘇惟将(あそ-これまさ)は、甲斐宗運の補佐を受けて総大将として出陣して、御船城の御船房行を自刃に追い込みました。
また、1543年、阿蘇惟豊は、堅志田城の阿蘇惟前を八代へ敗走させ、阿蘇氏の統一し、35万石を得ました。

阿蘇惟豊は、1549年に、朝廷に1万疋を献納し、後奈良天皇より勅使・烏丸中納言光康を迎えて従二位に叙せられました。
従二位は、大友義鑑や今川義元よりも上です。
また、二階崩れの変で大友家の戸次鑑連立花道雪)などから追われた、娘婿の牟礼城主・入田親誠(いりた-ちかざね)を迎えていますが、のち殺害しています。
こうして、阿蘇家は大友宗麟の臣従する形となりました。

1559年11月17日に阿蘇惟豊が死去(67歳)すると、阿蘇惟将が家督を継ぎます。

阿蘇惟豊の墓

下記は、通潤橋の道の駅近くにある、阿蘇惟豊の墓。

阿蘇惟豊の墓

阿蘇惟豊の墓がある場所は、当方のオリジナル地図でも入口をポイントしてあります。

阿蘇惟豊の墓

駐車場は、道の駅の上段Pを使用すれば近いです。

阿蘇惟将と阿蘇惟種

阿蘇惟将(あそ-これまさ)は、甲斐宗運を重用しました。
1578年に耳川の戦いで大友宗麟が島津義久島津家久に大敗すると、熊本は島津家に押されるようになります。
その後、阿蘇惟将は龍造寺隆信に従属して島津家に対抗し、山都町(矢部)の浜の館と岩尾城を引き続き本拠として、阿蘇氏を守り抜きました。

肥後・岩尾城

1583年11月2日に死去しましたが、子がいなかったようで、弟・阿蘇惟種が家督を継承しています。

阿蘇惟種(あそ-これたね)は1540年生まれで、このように1583年に阿蘇氏21代当主となりましたが、1584年8月13日に病死してしまいました。

よって、阿蘇惟種の嫡男・阿蘇惟光(あそ-これみつ)が、阿蘇家第22代となります。
しかし、まだ2歳と幼年であり、1584年3月には沖田畷の戦いで龍造寺隆信が討死し、島津家の勢いは益々であり阿蘇氏の苦悩は深くなりました。
1585年に頼みの甲斐宗運が亡くなると、新兵器「鉄砲」を駆使した島津義久の侵攻をすぐに受けて、阿蘇家は降伏します。
そして、母に連れられて弟・阿蘇惟善とともに目丸山へ逃亡しました(目丸落ち)。
阿蘇家では、最後まで抵抗した高森惟直高森城も、新納忠元の攻撃を受けて200以上の死者を出して陥落し、阿蘇氏は滅亡しました。


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その後、豊臣秀吉の九州攻めとなると、阿蘇惟光は隈本城(熊本城)の佐々成政、そして加藤清正に預けられ、わずかな領地を得ています。
しかし、1593年に朝鮮出兵に反対する梅北一揆となると、島津歳久や梅北国兼らとの結託を疑われて、豊臣秀吉により花岡山で斬首となりました。享年12。

阿蘇惟種の墓

阿蘇惟種の墓も岩尾城がある山都町にありました。
下記のところです。

阿蘇惟種の墓

阿蘇惟種の墓がある場所ですが、当方にオリジナルGoogleマップにて場所が分かるようにしてあります。

阿蘇惟種の墓

のち、一の宮・阿蘇神社の大宮司職は、加藤清正によって、弟・阿蘇惟善が復帰しており、阿蘇家は名家として現在に続いています。
現在の阿蘇治隆氏は、第92代・阿蘇大宮司となります。

当方オリジナルGogoleマップ (九州)
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