武田信玄・武田勝頼と甲斐・武田氏2代に仕え、武田家中最強と言われた軍団を率いた小山田信茂が郡内(現在の山梨県大月市や都留市)を中心に知行していました。
1582年2月に、織田信長の武田攻めが始まると、武田勢は裏切る家臣も多く総崩れ。
当時本拠とした新府城も破却し、武田勝頼は親戚衆でもあった小山田信茂が守る大月の岩殿城を目指します。
しかし、最後の頼みの小山田信茂も裏切り、織田信長が甲斐に入る前に、武田勝頼は織田勢の滝川一益らに追われて天目山で討死。
小山田信茂は織田信忠に面会する為、甲府に出向きますが「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそ不忠者」と甲斐善光寺で処刑されます。
その訃報を聞き、大月に残っていた小山田一族は、織田勢に抵抗するため岩殿山城に篭城したと考えられますが、その時の伝説として千鳥姫伝説が残されています。
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千鳥姫は小山田信茂の側室であったとされ、織田勢の大軍に岩殿山城を包囲されると、千鳥姫の子でまだ赤子の万生丸と、小山田信茂の2男・小山田賢一郎を連れて脱出を計画。
護衛として小幡太郎と城兵が共に岩殿山城の西尾根を辿り城外に脱出したと言います。
一行は声が反響する谷としその名が付いた「よばわり谷」まで逃れて、皆、無事に落ち延びた事を喜び合いましたが、その喜びの声が谷に反響し、予想外の方向から声が拡大されて聞こえました。
その声に、追っ手が来たのかと、慌ててしまった事もあり、千鳥姫の暖かい懐に眠っていた万生丸が目を覚まして、声高々に泣き出してしまったそうです。
小幡太郎はこのままでは小山田賢一郎の命が危ないと感じ、千鳥姫から赤子を奪うと、情け容赦なく岩殿山の断崖に万生丸を投げ落としました。
現在、その場所は「稚児落し」と呼ばれているそうです。
・小山田信茂と武田勝頼はこちら
・岩殿城訪問記はこちら
・小山田記~ 現認・小山田氏400年の存亡【小山田氏関連の考察とまとめ】
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