陶晴賢とは
陶晴賢(すえ-はるたか)は、戦国時代の大永元年(1521年)周防の大内氏重臣陶興房の次男として生まれます。
陶氏は主家大内氏の庶流であり、興房は周防国守護代として大内義興・大内義隆親子に仕え尼子氏や小弐氏との戦いで勝利を収めており、陶氏は家中において一目を置かれる存在でした。
晴賢は天文8年(1539年)4月18日に興房の病没により、陶氏の家督を相続します。
天文9年(1540年)9月4日、出雲の尼子晴久が30,000の軍勢を率いて安芸へ侵攻、尼子方から大内氏へ寝返った安芸国人毛利元就の居城吉田郡山城を囲みます。
この動きに対し陶晴賢は同月1日に尼子陣営の切り崩しを行っており、同年10月4日に晴賢は豊前守護代杉重矩と長門守護代内藤興盛らとともに大内軍の主力を率いて安芸の厳島に渡海、大内方の諸勢力と合流しながら同年12月3日に吉田郡山城の東にある山田村の中山に参陣します。
このとき晴賢率いる大内軍は10,000人になっていました。
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天文10年(1541年)1月11日、陶晴賢ら大内軍は吉田郡山城の西隣の天神尾に陣を移動、これによって大内軍や毛利軍に挟み込まれることになった尼子軍は、同月13日に大内・毛利両軍の奇襲を受け敗退。この戦いで大内軍は尼子一族である尼子久幸らを討ち取りますが、陶氏の家中では名立たる武士14名が戦死したと言われています。
その後晴賢は毛利氏や他の守護代とともに安芸の反大内勢力の討伐を開始、同年5月に安芸武田氏を滅亡させた晴賢は武田氏の重宝、新羅三郎義光の鎧を接収して大内義隆へ進上しています。
この尼子軍の敗戦により、安芸・石見・出雲の尼子方の国人たちは大内方への鞍替えを図ります。
そして天文11年(1542年)1月11日、今度は大内義隆が15,000の軍勢を率いて尼子征伐のため出雲へ出陣。
同年7月に大内軍は陶晴賢の指揮のもと出雲の赤穴城を激戦の末攻略します。
このとき晴賢は石見の国衆益田伊兼と同年8月25日兄弟の契りを結びます。
この両家の結びつきは伝統的なもので当時益田氏は同じ石見国衆の吉見氏と所領問題を抱えており、晴賢としても吉見氏は祖父陶弘護を刺殺された過去があり、大内義隆が吉見氏を重用していることに不満だったと考えられます。
天文12年(1543年)2月12日、尼子氏居城月山富田城近くの京羅木山に本陣を移した大内軍は同年3月に攻防戦を開始します。
しかし、大内方の戦況は悪く同年4月30日には味方であった吉川氏などの国衆たちが尼子方へ寝返り、月山富田城に入城してしまいます。
この状況に大内義隆は退却を決断、同年5月7日より撤退を開始しますが尼子軍の追撃により大内軍は壊滅的な打撃を受け、義隆養嗣子の大内晴持は乗っていた船が沈没し溺死しています。
『房顕覚書』によるとこの撤退戦において陶晴賢は内藤興盛とともに陸路にて尼子軍の追撃を防いでいましたが、陶氏の被官が内藤氏の被官を切り殺す刃傷沙汰があり、晴賢は自家の被官に切腹を申し付けています。
また『陰徳太平記』によると、晴賢は退却時に家臣たちに米を与えて自らは魚の腸を食べて水を飲んだと記されています。
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『歴名土代』によると、その後の陶晴賢は天文14年(1545年)8月17日尾張守に任官され、天文17年(1548年)4月には従5位下から従5位上に昇進。
大内氏家中において3番目の位階になります。
しかし、この頃より晴賢と大内義隆の関係は悪化、これは尼子討伐失敗後の義隆の軍事に対する姿勢に晴賢たち武断派の諸将が不満に思ったためと言われています。
天文18年(1549年)1月、陶晴賢に筑前国衆の謀反計画に関与した噂が立ちます。
しかし晴賢はすぐに大内義隆へ身の潔白を陳弁、義隆は側近に調査を命じます。
このときに杉重矩は、晴賢の謀反の企ては明らかで大内家御家人はことごとく晴賢の配下となっていると注進しますが義隆は何も行動せず、同年に毛利元就が山口の義隆のもとへ挨拶に来たときには陶氏被官の青景隆著が元就を晴賢邸に案内して夜な夜な密儀を交わしたと言われています。
そして、この年の冬には義隆に謀反の企みを報告した杉重矩と晴賢は和睦しています。
天文19年(1550年)8月、陶晴賢は毛利元就に対し大内義隆を排し嫡男大内義尊擁立への協力を依頼します。
そして同年9月15日には晴賢による義隆幽閉の風聞が立ったため義隆は今八幡・仁壁両者の例祭を欠席しますが、晴賢は無実を主張。
その後晴賢は同月に開かれた大内氏の最高評議会、式日評定を欠席し同年11月からは居城若山城に籠もります。
そして天文20年(1551年)1月になると両者の不和は深く知られるようになり、義隆は大内家中に騒動が起こったら来援にくるよう毛利氏へ密使を送り、晴賢は同年5月豊後の大友宗麟との間に、宗麟の弟で義隆の甥である大友義長を義隆排除後の大内氏当主にする密約を締結させます。
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そして同年8月27日深夜、陶晴賢は大内義隆がいる大内館に数千の兵で進軍、報せを受けた義隆は翌28日に法泉寺へ移動し海路にて脱出を図りますが暴風雨のため逃れることができず、同年9月1日大寧寺にて陶軍との抗戦の末自刃します。
この大寧寺の変により陶晴賢は大内義隆・大内義尊親子の殺害に成功、その後は自身と対立する義隆方の大内氏家臣を滅ぼして家中の統一を図ります。
そして天文21年(1552年)3月には計画通り大友氏より大内義長を新しい主君に迎え入れ、義長(当時は晴英)から「晴」の字をもらい当時名乗っていた隆房から晴賢へ改名します。
しかし、この大内氏の内紛に生じて尼子氏や毛利氏が勢力を拡大、陶晴賢は当初は陶方として行動していた毛利元就に対し徐々に不信感を抱くようになります。
そして天文22年(1523年)10月、以前より自身と対立していた石見の吉見氏が反乱を起こしたため晴賢は領内に吉見氏討伐命令を出しますが、天文23年(1554年)元就は晴賢からの援軍要請を断り挙兵、安芸の大内方諸城へ攻め込みます。
この戦況に対し陶晴賢は吉見氏と和睦を結び一旦山口に帰国しますが、毛利氏討伐のために派遣していた宮川房長が野戦にて毛利軍に敗退し房長は戦死してしまいます。
そして弘治元年(1555年)3月には晴賢は毛利氏への内応の罪で家臣江良房栄を誅殺、この事件は毛利元就の策略とも言われていますが真相は定かではなく、晴賢は家中の統制が不穏のまま同年9月21日厳島にある宮尾城を攻めるため20,000の軍勢で渡海します。
その後陶軍は宮尾城を見下ろせる塔の丘へ参陣、堀を埋めて水源を絶ち同城を攻め立てますが、同年10月1日に陶晴賢は毛利元就の奇襲を受け敗北。
陶晴賢は家臣三浦房清に付き従われその場は逃れますが水軍が撤退していたために船で逃れることができず、大江浦にて自刃します。享年35才。
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この厳島の戦い後陶晴賢がいなくなった大内氏に対し毛利元就は進撃の手を緩めず、弘治3年(1557年)4月に大内義長が長門の長福院にて自刃したことにより大内氏は滅亡します。
(寄稿)kawai
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