平岡頼勝 (平岡石見守)~関ヶ原の戦いで小早川秀秋を東軍に説得した家老

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 平岡頼勝(ひらおかよりかつ)は1560年に生まれた。摂津溝杭(みぞくい)(大阪府)出身とされる。
 父は平岡頼俊。母は不詳。

 平岡氏は、河内の平岡を拠点としていたが、平岡頼勝は諸国を流浪する浪人であった。
 しかし、豊臣秀吉に才能を認められて家臣となる。

 正室は上月景貞の娘。
 この正室は、志方城主・櫛橋伊定の長女(黒田官兵衛の正室・光姫の姉)の長女。

 1594年、豊臣秀吉の甥・小早川秀秋が小早川家の養子として入った際、稲葉正成と共に小早川秀秋付の家老となった。

 また、正室の従兄弟である黒田長政とは懇意であり、黒田長政は関ヶ原の戦いの前から平岡頼勝と密かに連絡を取り、内応工作をした。


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 1600年、関ヶ原の戦いでは、黒田長政に通じて、稲葉正成と共に主君・小早川秀秋に東軍に寝返ることを勧めた。

 関ヶ原の戦いの後は、徳川家康より小早川秀秋は岡山藩55万石となり、平岡頼勝は別途、備前児島郡に20000石を与えられた。

 小早川秀秋が乱心すると、多くの家臣が出奔したが、平岡頼勝は最後まで忠義を尽くしたと言う。

 1602年、小早川秀秋の死後は浪人したが、1604年8月に徳川家康に仕え、美濃徳野で10000石(美濃徳野藩)となった。

 1605年、嫡男・平岡頼資(ひらおか よりすけ)が河内で誕生。

 1607年2月24日死去。享年48。

 子の平岡頼資が、3歳で家督を継いで藩主となった。

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