生駒吉乃 (いこま きつの) 謎が多い信長最愛の妻

生駒吉乃とは

生駒吉乃(いこまきつの)は、柳街道に沿った小折(愛知県江南市)の富商・生駒家宗(生駒八右衛門家宗)の長女として、1528年?に誕生した。
生駒屋敷は小折にあることから「小折城」とも呼ばれ、生駒家は当時大量生産できなかった藁の灰を売る豪商として、馬借も家業としていたようで、犬山城主・織田信清に属していた。
1557年頃には蜂須賀小六 (蜂須賀正勝)が生駒家の食客となり、川並衆を束ねて行く原動力となっている。
通常の史料では「生駒家宗女」と記載されているが、現在、一般的に知られる名は生駒吉乃(吉野)であり、この名は前野家文書での創作である事が濃厚だと考えられているが、前野将右衛門も生駒家に出入りしていたようだ。
生駒類と言う名が生駒家に伝わっており正式名と推測できるが、ここでは生駒吉乃としてご紹介したい。


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生駒吉乃は初め土田政久の孫である土田秀久(土田弥平次)に嫁ぐが、1556年9月に斎藤義龍との戦い(明智城の戦い)に後詰した夫・土田秀久が討死した為、実家の生駒家に出戻っており、そんな生駒吉乃(28歳?)に惚れこんだ年下の青年が織田信長だったのだ。
清洲城と生駒家の距離は約15kmくらいであるから、馬を飛ばせば1時間位で行けたのだろう。
生駒家は馬借、すなわち運送業だった事もあり、浪人や旅芸人などが多く集まり、織田信長はそんな諸国の情報を聞くためなどで、生駒家に出入りしていたようだ。

蜂須賀小六は、この生駒吉乃の実家である生駒氏とは縁戚関係で、この時住んでいた母(安井御前)の実家・宮後城(江南市宮後町)から約3kmとすぐ近くであり、諸国を放浪していた木下藤吉郎(豊臣秀吉)が織田氏に仕えたのは蜂須賀小六と縁のあった生駒吉乃の推薦によるとする説もある。

当初、生駒吉乃は非公式の愛妾という立場だったようで、1557年に織田信忠を産むと、1558年に織田信雄、1559年には徳姫(五徳)を産んでも生駒屋敷に住んでおり、3年続けて出産した為、産後の肥立ちが悪く伏せった。
そんな中、織田信長は本拠を清洲城から小牧山城に移転したあと、生駒吉乃の為に新御殿を建設し、移住するように使いを出したが、生駒吉乃の兄・八右衛門が織田信長に生駒吉乃の病の事を知らせると、1563年、織田信長自ら生駒屋敷に赴き、病の生駒吉乃を輿に乗せ小牧山城へ連れて行き、家臣に嫡男・織田信忠の生母として披露し、正式に側室になったと言う。

なお、織田信忠の生母は生駒吉乃だが、生年から父は土田秀久(土田弥平次)とする説もある。
織田信長の正室・濃姫には子がなく、織田信長は正室・濃姫の子として織田信忠を養子にし、生駒吉乃を実質上の正室、もしくは正室に近い扱いとしたようで「信長最愛の女性」とされる。
生駒吉乃が小牧山城に移り住んだ後も、織田信長は頻繁に見舞ったが、1566年5月13日に死亡。享年39。29歳で死去したという説もある。


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荼毘に伏されると織田信長から香華料として660石が生駒家に贈られた。
その後、石高は減るものの豊臣秀吉・徳川家康らも追認(朱印状・黒印状)して、柏原織田家を招待し、200回忌、300回忌法要が営まれている。

菩提寺・嫩桂山久昌寺と荼毘地に墓碑が存在する。

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