生駒親正(いこまちかまさ)は1526年?に美濃国可児郡土田(現在の岐阜県可児市土田)で誕生した。幼名を甚介。初名を正成。のち、近世・近規・近親と改める。雅楽頭・従五位下・左近大夫。
父は生駒親重(土田政久の子、もしくは同一人物とも?)。
母は曾根氏の娘とされる。
織田信長の母・土田御前も、同じ可児郡土田の出とする説があり、生駒親正の父・生駒親重の娘、もしくは姉妹とする説もある。
また、織田信長が最も寵愛したとされる側室・生駒吉乃は、生駒親正の従妹ともされる。
1555年、正室である高木正資の養女との間に、嫡男・生駒一正が誕生。
1566年、織田信長は美濃の斎藤攻めの際に、生駒家に従属を迫り、織田家の家臣に加わったとされる。
その後は、浅井長政から襲われた金ヶ崎の戦いで、羽柴秀吉が殿(しんがり)を務めた際、織田信長は麾下の5人の勇士を選んで羽柴秀吉に付けたが、その5人に生駒親正がいた。
この縁から、以後は羽柴秀吉の与力に加わり、武田勝頼との長篠の戦い、本願寺顕如との石山本願寺攻め、紀伊国雑賀攻めなどで活躍した。
1582年、明智光秀による本能寺の変で織田信長が横死すると、その後は羽柴秀吉の直臣となり、山崎の戦い、柴田勝家との賤ヶ岳の戦い、小田原攻め(小田原征伐)でも活躍した。
文禄の役では五番隊として福島正則、長宗我部元親らとともに渡海している。
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羽柴秀吉が姫路城主時代の1578年には約1000石であったが、1584年には2000石が加増。
1585年には近江国高島郡23500石、1586年には伊勢・神戸城主41000石、そして赤穂60000石と出世し、1587年には讃岐国17万6000石となっている。
居城は引田城から聖通寺城に移したが、1588年、高松城を築城開始する際に、その場所の選択に悩んでいたが、黒田官兵衛に相談をして決断したと伝わる。
そして、高松城は1590年に完成。
丸亀城は1597年から造営を開始している。
なお、讃岐の前国主。十河存保の嫡男・千松丸を人質として預かっていたが、十河存保が戸次川の戦いで討死すると、その遺領2万石を横領するため、甥の大塚采女に命じて千松丸を毒殺させたと伝わり、十河家復活を防止する為、三好家の者などを徹底的に弾圧したことで知られる。
豊臣秀吉の晩年には、中村一氏や堀尾吉晴と共に、豊臣政権の3中老に任じらた。
1600年、関ヶ原の戦いでは、子の生駒一正が徳川家康に味方して東軍に与し、生駒親正(75歳)は病床であった為、在国しており西軍に与して、細川藤孝の田辺城攻めに家臣を派遣している。
東西に分かれた理由とし、て西軍決起時に在坂していたため、石田三成の西軍に付かざるを得なかった、どちらが敗れても生駒氏が存続できるよう配慮したなどの説がある。
関ヶ原の戦いの直前に剃髪して高野山に入ったとされる。これは、生駒家として東軍寄りの行動があった事を問われたためとする説もある。
戦後は、子の生駒一正が東軍に与した経緯から生駒家の所領は安堵され17万3000石となった。
ほどなくして生駒親正は許されて所領の讃岐に戻り、1601年に隠居して家督を生駒一正に譲ったが、1603年2月13日に高松城にて死去した。78歳。法号は海依弘憲。
高松藩は、孫・生駒高俊の代に「生駒騒動」と呼ばれる事件があり、讃岐国は取り上げられ出羽国由利郡へ配流となった。
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