織田信忠とは 本能寺の変のもう一つの謎

織田信忠

権力者たちが一堂に会することは、大変なリスクがあります。
その場を襲撃された場合、各機関のリーダーを一度に失うわけですから。
どうしても一所に権力者が集まる場合は、強固な護衛が必要になります。
なのに、日本史上には、強固な護衛もなく政権のトップとナンバー2が一所に集まって起こった事件があります。
戦国時代で最も有名な事件の一つ、本能寺の変です。


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天正10年6月2日、織田政権トップの織田信長本能寺に、織田政権後継者にしてナンバー2の織田信忠は近隣の妙覚寺に滞在しました。
その後、明智光秀から攻撃を受けて信長と信忠はともに自刃したことは有名です。
もしも信忠が生きていれば、織田政権は信忠を中心に引き続き日本列島だんとつの強い政権として存続していたという説もあります。
なぜ、織田信長と信忠は一所に滞在したのか、現在のところ明確な答えはありません。
本記事では、あくまでほんの一説を見ていきます。
織田信忠が滞在した理由を研究するアマチュア研究者の増えていただければと思います。

織田信長と織田信忠の立場

まずは、本能寺の変時点での信長と信忠の立場を見ていきます。
本能寺の変の3か月前、天正10年3月、信長は武田氏を滅ぼします。
また、この時すでに東北の大名たちは織田政権に恭順の意を示し、関東の北条氏は織田政権の同盟傘下に入る等、織田政権と徹底抗戦する意を見せる大名の数は少なくなっていました。
また、信長は本能寺の変の4年前くらいに朝廷と折り合わず、それまで就いていた官職を辞します。
それ以来、位階だけを持ち官職のない状態でした。
武田氏を滅ぼした後、その祝賀の勅使が織田家の家臣村井貞勝のもとを訪れます。
その時、勅使から信長にか、信長から勅使になのか、どちらから発信したかはわかりませんけど、太政大臣か関白か征夷大将軍へ任官をする提案がなされます。
いわゆる、三職推認問題です。
そして、その結論の出ないまま、羽柴秀吉からの援軍要請を受けて、出兵の準備のために供回りだけを連れて本能寺に滞在をするのです。


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次に織田信忠です。
信忠は、上記の武田氏討伐に大きな功績をあげます。
この時、信長に「天下を譲る」とまで言われたとされます。
それ以前、本能寺の変の6年前、すでに形式的とはいえ家督を譲られてもいます。
また、本能寺の変の1年前、京都御所馬揃えでは、織田家一門での序列は1位になっています。
『名将富鉱録』によると、織田家の家臣団たちからも優れた武士と見なされており、織田家ナンバー2にして後継者の地位を築いていると言えます。
そして、信長とともに羽柴秀吉の援軍として出兵するために、本能寺の近くにある妙覚寺に滞在します。

信長は自身と信忠の昇進をすすめていた?

源頼朝等権力者は、ある官職を辞する時はさらなる上級官職に就こうと意図していることはよくあります。
信長が本能寺の変数年前に官職を辞したのは、さらに上の官職を目指すためであったという説も多々あります。
また、織田政権は本能寺の変の時、家臣羽柴秀吉をトップに毛利氏と戦っている最中ですけど、京都を追放された足利義昭を、毛利氏は自国の鞆で支援しています。
鞆のある備後国では、鞆幕府とまでいわれています。
近畿東海以外では、室町幕府の威力は大きい地域も残っており、織田信長が室町幕府支持の大名や現地有力者を、義昭擁する毛利氏から離反させることは難しかったと考えられます。
このことは、毛利氏攻めに限ったことではありません。
日本列島統一を狙う信長にとっては、室町幕府支持者はあちこちで障害となることでしょう。
なので、信長が足利義昭に匹敵する或いは上回る官職への昇進はメリットが大きいとする説も多いです。
また、『兼見卿記』によると、信長は信忠に自分の官位である右大将を譲ろうとしていたとうかがえる記述もあります。
それを行うために、信長と信忠が同時に京都にいたという説もあります。
このように、信長自身の昇進や信忠の昇進等が理由となって、信長と信忠は同じ時に一所にいたのではないかとも言われています。

結局は謎

ただ、右大将を譲ろうとしていたとうかがえる記述のある『兼見卿記』は、後に書き直された部分もあり、丸ごと信じることはできません。
また、信長が征夷大将軍か関白か太政大臣のどれかに昇進が決まっていた等とわかる史料も現在のところありません。
結局は、なんで信長と信忠が同時に京都にいたのか、決定的な理由はわかりません。


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中国地方への援軍と言えばその通りでしょうけど、それにしてもなぜ信長と信忠が二人して援軍に向かうのか等、研究することはたくさんあります。
興味を持たれた方、是非謎解きに挑戦してみてください。

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