横山党(横山氏)
敏達天皇(538年?~585年?)・春日皇子・小野妹子と、遣隋使を務めた小野妹子の子孫で、小野篁(おののたかむら)(802~853年)の後裔と言われている。
小野妹子が近江国滋賀郡小野村に住んで「小野」姓を称したと伝えられている。
陽成院領の小野牧(多摩センター一帯?)を国家が直営する勅旨牧にした際に、中央(京)より散位小野諸興が別当として「小野牧」に赴任したとされ、その後、近くにあった横山庄(八王子市)に移り住んだ為、横山氏を名乗ったと言う説があります。
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秩父重弘(秩父庄司重弘)の次男が、小山田有重(小山田別当有重)と称した。母は横山党の横山孝兼の娘。
桓武平氏良文流とは、第50代・桓武天皇(かんむてんのう)(737~806)・第五皇子・葛原親王(786~853)・高見王・高望王と続き、高望王890年?に宇多天皇の勅命によって、「平」姓を授けられて臣籍降下し、平高望となり関東に下った。平高望・平良文(886?~953?)と繋がり、平良文は相模国高座郡村岡郷(神奈川県藤沢市)に土着して村岡五郎と称した。
平良文の嫡男、平忠頼(930?~1018?)の子・平将常が武蔵国秩父郡において秩父氏を称したとされる。
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952年、平忠頼の父・平良文が下総国阿玉で死亡し、下総国相馬郡・海上郡大友・阿玉郷などを平忠頼は継承したとされ、弟の平忠通は相模国に館を持ち、三浦氏の祖となったという。
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