下間頼龍とは
下間頼龍(しもつま-らいりゅう)は、本願寺の坊官で武将である下間真頼の子として1552年に生まれた。
下間頼龍の幼名は松菊、通称は按察使。法名は了明。
しかし、父はその1552年6月14日に急死している。
下間宮内卿家の中でも主筋であったため、本願寺での発言力も大きく、成長した下間頼龍は本願寺の僧侶として、軍事面よりは政治などで活躍。
堺の商人とも親しく1560年12月には津田宗達の茶会に出席するなど、本願寺の中では重鎮的存在として、本願寺顕如を支えた。
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1572年、石山合戦では一族の下間頼資・下間頼純の父子と共に、織田信長勢の細川昭元を攻撃している。
1580年1月、本願寺と織田信長が和睦した際には、下間頼廉や下間仲孝と共に下間頼龍の署名が起請文に見られる。
その後、池田恒興の養女・七条(織田信時の娘)を妻に迎え、1586年に嫡男・下間頼広(池田重利)が生れている。
また、娘が大久保長安の正室などになっている。
翌年、1587年、本願寺顕如の長男・本願寺教如が石山本願寺にて籠城しようとした際、本願寺教如の側近になっていた下間頼龍は本願寺教如に従った。
そのため、本願寺顕如から叱責されている。
本願寺顕如の没後は、本願寺教如に従い、1602年に本願寺が東西分裂した際にも、東本願寺の本願寺教如に下間頼龍らは従った。
西本願寺の本願寺准如には下間頼廉・下間仲之・下間頼芸がついている。
1609年6月15日、下間頼龍は58歳で死去。
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子の下間頼広も本願寺教如に従っていたが、出奔して池田輝政に3000石で仕えると池田重利と改名。
大坂の陣で功績をあげ、播磨新宮藩10000石の大名となった。
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