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風林火山。といえば、思い浮かべるのは武田信玄ではないでしょうか。
「故に其の疾きこと風の如く 其の徐なること林の如し 侵掠すること火の如く 動かざること山の如し」
孫子の軍争篇に記されているこの戦術論は、これで終わりではありません。
「知り難きことは陰の如く 動くことは雷が震うが如し」
と全部で6つあります。
なぜ信玄はこの6つの中から風林火山を選んだのでしょう?
そもそも、この風林火山を旗にした意図はなんだったのか。自軍をこのように仕立てれば、戦は勝てる。と考えたのかもしれません。
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武田信玄(武田晴信)については、今まで様々な人が書いていて何を書けば良いやらと考えました。
自分も小説の題材として信玄を取り上げたことがあります。
まずは信玄の生い立ちを書いていくとしましょう。
武田信玄は甲斐源氏の嫡流である武田氏に生まれています。父は武田信虎、母は大井信達の娘です。
生まれた家は守護大名家、恵まれていると思われるでしょうが信虎の代で勢力を取り戻せたというギリギリの状況でした。
なぜそのような状況にあったのかといえば、当時世の中は戦国乱世。下克上の風が遅れながらも甲斐に到達していました。
甲斐源氏は、甲斐国に根を下ろしていますが主家に取って変わろうという一族が周りに溢れていました。
徐々に領地が削られて信虎の代では、わずかな領地しか残っていませんでした。しかも信虎は14歳で家督を継いでいます。
この時代では元服をしたなら成人として扱われますが、まだ少年といっても過言ではない。
しかしです。信虎は軍事の才に恵まれていました。上杉謙信と似たタイプだったのでしょう、小勢力ながら勇猛果敢に一族・豪族を降していきました。
そんな最中に、今川氏親の武将福島正成が甲斐に侵攻するという事件が起こります。
15000という大軍です。俗に福島乱入事件と言われています。
大軍の福島勢に対して、信虎側は2000という絶望的な兵力でした。
ここまで兵力が違いすぎると、どうしようもない感じがしますが信虎はこの状況でも果敢に挑み、福島正成を討ち取ります。
その勝利の最中に信玄は生まれています。
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信玄誕生後も、武田信虎は戦に明け暮れます。甲斐国内は信虎に心服しているとはいえ負ければまた元の状況に戻ってしまいます。
北条氏綱が再三甲斐へ攻めてきては、それを返り討ちにしていました。そして、北条領へと攻めてもいますが成果は上がっていません。
というよりは信虎の代でやっと纏まりつつある甲斐では、まだ他の領土を治められるだけの力はなかったのです。
ではなぜ攻めていったのか? 甲斐領内に篭っていただけでは、いずれまた反乱が起きてしまうでしょう。家臣が心服するのは、領主が強いからであり付いていけば恩賞が貰えるからです。
恩賞をくれない、消極的な姿勢では心は離れてしまうもの。
だからこそ信虎は外征をしていたのですが、国力がついてきません。
江戸時代換算で甲斐の国力は22万7000石あまり。隣国の今川氏、後北条氏も国力は甲斐の倍以上あります。
それでも外征していたのは、甲斐国内の求心力を得るためだったのだと思います。
信玄のことなのに信虎の話になってしまっていますよね。
しかし、このあたりの事情も知っておいていただかないと、信虎追放のクーデターが理解できなくなってしまいます。
さていよいよ信玄について話していきます。
信玄はクーデターまでどのように過ごしていたのでしょうか。
最近のニートと近い、と言ってしまえば怒る人もいるかもしれませんが、実際10代の信玄は放蕩息子の典型だったようです。
日夜酒宴三昧で、嫡男であるという自覚が希薄だったのだと思われます。
そんな信玄を見て、信虎はどう思っていたのでしょうか。会社に例えるなら、後継者としてふさわしいかどうか。
大方の経営者が同様の答えを出すと思われますが、信虎は信玄の次弟信繁に期待をかけます。
信虎が苦労して再建しつつある甲斐。それを放蕩息子に譲るほど時代は平穏ではないのです。
信玄が危機感を持ち出したのはいつからなのか? それは信玄の守り役に板垣信方という人物がいたことから危機感を持ち始めたのではと思われます。
具体的な時期はわかりませんが、この信方という人物が関わっていると考えられます。
信玄に諫言をした際、何かを察したのではないでしょうか。信方は武田家臣団では随一の実力者、信虎を除けば信方には誰も勝てない。
世の中の風潮を信玄自身知っていたでしょう。下克上という言葉を。
このままでは武田は乗っ取られる。危機感を初めて持った瞬間です。
ここから信玄の巻き返しが始まるのです。
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さて、やっと本題に入れます。信玄のトピックを3つ上げていきます。
ちなみに信玄というのは出家号で、晴信というのが元服後の名乗りです。
晴信の晴は時の将軍、足利義晴からの偏諱でした。
それでは3つのトピックをあげます
信虎追放「無血クーデタ-」
信玄のイメージとして、戦が強い・戦国最強の軍団などのイメージがありますよね。
ですがそれは作られたイメージであり、誰が作ったかといえば信玄自身が意図的に流布させたものです。
イメージは重要です。相手が初めから先入観の持ってくれるのは、行動を縛ることにも繋がり当事者は動きやすくなります。
信玄がなぜイメージを意図的に流したのかは、信虎追放の時から宿命づけられていたことでした。
クーデター直前の甲斐の状況は、末期的な状況でした。信虎は家臣を抑圧する方策を採っており、逆らう者は追放・または自ら信虎の元を去っていっていました。
自然諫言する者はいなくなります。明日は我が身、ということです。
この信虎を何とかしなければ、自分たちも危うい。国人衆は心の中で思っていたのでしょう。
その中心には板垣信方がいたのだと考えられます。
そもそも、信方とはどの様な人物だったのでしょう?
血筋は甲斐源氏からの別れで、代々が武田氏に仕えてきた家柄。時代の流れとともに、実力を蓄えて信方の代にいたっていました。
信方を中心とした国人衆は、信虎を追放するということを考えます。暗殺ではなく、です。
暗殺という挙に出たなら、謀反だと成功したとしても今度は自らの家が危ない。
幸いにも、とでも言いましょうか。自分たちが担ぐのに最適な都合のいい神輿がいました。
それが信玄でした。信玄は直前までなにも知らなかった可能性があります。完全に蚊帳の外でクーデターが進行していたのだと考えられます。
天文10年(1541)、信虎は信濃の国人衆を従えて海野平へと侵攻。滋野3家と言われた海野、禰津、望月の軍を破って、甲斐へと戻っています。
そしてすぐに今川氏親に嫁いでいた娘(定恵院)、孫(氏真)に会うため駿河へ旅立ちます。
家臣たちが勧めたのか、それは今となっては推測するしかありませんが、状況証拠から判断するならそうでしょう。
戦勝で気を良くしていたのかもしれません。
今川氏も、戦にめっぽう強い信虎を取り除けるまたとない機会でしたから、渡りに舟だったと考えられます。
こうして信虎追放、信玄擁立のクーデターは成功することとなりました。
兵法家への道
クーデターの後、武田信玄はどう行動を起こしたのでしょうか?
この問の答えは分かりきっています。行動はしていない、というより動けなかったという方が正解です。
国人衆による信虎の追放劇。ここで信玄が何か行動しようとしたなら、信玄の命は危ないのです。
では無策、というかこのまま飾り物の国主で良いのか?
そうは考えていなかったからこそ、後に戦国最強の名を冠する武将と呼ばれるのです。
そもそも、信玄は初陣が遅かった。
20歳位で初陣したのではないかと言われています。この遅い初陣、武将としての資質が疑われていたためではと思います。
この遅い初陣より遅い者となると、長宗我部元親くらいでしょう。
もっとも、元親は戦国武将としての資質が高かったので、あと少しで四国制覇にまで手が届いていましたが。
信玄は父の信虎と同じ、もしくはそれ以上の資質を持ってはいないと自身も感じていた。
だからこそ国人衆は信玄を祭り上げたのだと思います。
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しかし、信玄の立場はものすごく脆いものです。
国人衆が力を持ってきたなら、間違いなく国主の座は追われてしまうでしょう。
ではどうしていけばいいのか? 熟慮したことと思います。
戦国武将として、また甲斐の国主としてまずは畏敬の念を抱かせる必要がありました。
戦にも強くなければ、国人衆は勝手気ままに行動するでしょう。
何を持っていれば畏敬の念を持つのか。考えてみれば、甲斐源氏嫡流の武田。武家としての歴史が古く、兵法書が多数伝わっていました。
信玄は兵法を読み込んだのです。
兵法書、過去の戦歴を学ぶことは歴史上の名将たちもしてきていることです。
信玄の場合は自身の身の確保、国人衆から畏敬の念を持って接せられることがまずは主な目的でした。
そして初戦の戦に選んだのが諏訪氏でした。甲斐の隣国、信濃の諏訪地方を領する国人です。
信虎の代では諏訪氏を利用して、甲斐の大井氏を抑えていたのですが信玄は方針を転換。まずは諏訪氏を降すことを決めました。
情報収集も怠りなく行い、諏訪氏の内情を調べあげます。
この情報収集が戦にとってかなりのウエートを占めています。
何をするにしても、情報収集は欠かせません。得られた情報から、取捨選択を行い必要な情報を精査する。
戦略を立てる上で重要な要素となります。
信玄によって調べられた諏訪氏の内情は、武田氏を取り巻く現状と似たような状態でした。
・諏訪氏は諏訪大社の大祝(おおはふり)の家系で、代々が崇められる存在だった。
・高遠氏、矢島氏、金刺氏と対立関係にある。
・現大祝諏訪頼重は思慮の足りない人物である(むやみに戦を他領に仕掛ける等)
主にこの情報が重要だったと推察されます。
この情報から出てくる答えは、諏訪を取れると考えられました。
反諏訪派の取り込みを済ませて、信玄は出陣します。兵力3000、対して諏訪頼重側は350騎、雑兵800。
結果は目に見えていました。頼重は戦の最中に視察をすると本丸を出たりしたため、城兵は逃げてしまい和議に応じて武田へ降りました。
信玄の甲斐国主としての戦の原点について書きましたが、この後の戦も以上ののようなステップを踏んでいます。
情報収集・調略、謀略。戦になる前に勝利を決定させる。
地味な作業の繰り返しですが、それだけに手堅くくずれにくい側面があります。
初めに書いた「風林火山」の旗も、武田騎馬軍団についてもその延長線上にあります。
風林火山の旗が昇ったら、相手に心理的なダメージが生まれます。騎馬軍団も、勝敗分岐点を超えた時に繰り出されるものです。ダメ押しのチェックメイトとして。
信玄の兵法家としての名声は高められていきます。
集大成としての上洛戦
信玄は戦を通して、また領国経営に手腕を発揮し甲斐・信濃・駿河、上野・飛騨・美濃の1部を領するまでになります。
しかし。隣国に強大な勢力が成長していました。織田信長です。
領国を見れば、尾張・伊勢、美濃の大半、畿内にも影響力があり、徳川家康の領国三河・遠江を加えると信玄の倍以上の差となっていました。
単独では勝ち目はありません。元亀年間に入り、好都合な展開が起こりつつありました。
足利義昭は各大名に御教書を大量に出していました。信長を倒せと。
信長が越前の朝倉義景を攻めている最中に、近江の浅井長政が裏切り信長の背後を付きます。
信長の敵対勢力として、浅井長政、朝倉義景、比叡山と増えてきました。
今が好機。信玄は書のやり取りを通して、上洛を決意します。今動かなければ、いずれ武田は滅ぼされてしまう。
危機感があったのだと思います。
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まずは情報収集を行い、信長が身動きの取れない状況だと確認します。
周りの隣国には牽制のために工作を仕掛けます。完全に後顧の憂いをなくしてから上洛の途につきます。
徳川家康との三方ヶ原の戦いは、鮮やかな戦いぶりでした。詳しく知りたい方は、参考文献をお読みください。
人には命があり、限りもある。
信玄は病に冒されていました。1説には狙撃されたというのもありますが。
上洛を目前に信玄はこの世を去ります。
もし、の議論が許されるなら信玄は天下を取れたのか? という素朴な疑問があります。
結論から言うなら取れなかったでしょう。確かに信玄は甲斐源氏嫡流でしたが、征夷大将軍として足利義昭がいました。
織田信長を倒せていたとしても、京には留まらず領国に帰っていたでしょう。
兵農未分離の武田軍は、そのまま留まれはしなかったでしょうし、隣国の上杉謙信が黙っていなかったでしょう。
結局信長登場以前に戻ってしまったと推察されます。
読んでいただきありがとうございました。
「参考文献」
風林火山 武田信玄の謎 加来耕三
武田信玄 武田3代興亡記 吉田龍司
逆説の日本史9 井沢元彦
(寄稿:優秀者称号官位・従六位下)和泉守@nao
・武田勝頼~偉大な父と比べられて~
・松永久秀 ~戦国下克上~【戦国人物伝4】
・足利義昭 ~室町幕府最後の将軍~ 【戦国人物伝3】
・小早川隆景~毛利の両川とは【戦国人物伝2】
・太原崇孚雪斎~黒衣の宰相の真実とは【戦国人物伝1】
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