竹中重矩(たけなかしげのり)は、1546年に誕生した。通称は竹中彦作、竹中久作。
父は斎藤氏家臣の大御堂城主・竹中重元。母は不詳だが、父の正室は杉山久左衛門の娘。
2歳年上の兄に竹中半兵衛(竹中重治)がおり、1562年、父が亡くなると兄が家督を継いだ。
兄・竹中半兵衛(竹中重治)が、1564年2月に、稲葉山城を奪取した際には、稲葉山城に人質として入っていた竹中重矩(19歳)が病気を装い、兄・竹中半兵衛(竹中重治)が、見舞いと称して安藤守就ら十数名とともに城内に入る口実となった。
この時主君・斎藤龍興は稲葉山城を奪われたのだ。
1567年、斎藤家が滅亡した後は、兄・竹中半兵衛と共に織田信長に仕えた。
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なお、竹中重矩の妻は中川重政の姉妹。この中川重政は織田信長の黒母衣衆。
1570年、浅井長政との姉川の戦いにも参陣した。
この時、織田勢を装って織田信長の本陣に切り込んだ、浅井家の勇士・遠藤直経を、旧知であった竹中重矩(29歳)が見破り、遠藤直経(遠藤喜三郎)を討ち取る武功を挙げている。
なお、この武功は、重臣・不破矢足が討ち取った首を、もらい受けたとも言われている。
1579年6月13日、播磨の高松城攻めの最中に陣中で病死した兄・竹中半兵衛に代わり、6月22日、羽柴秀吉(豊臣秀吉)の与力に加わった。
1582年3月、織田信長に従い、武田勝頼攻めの信濃に出陣している。
しかし、1582年6月、明智光秀により織田信長が本能寺の変で死去した後、美濃国不破郡長佐村で起こった郷士一揆と戦いとなって、6月25日、竹中重矩は討死した。享年37。
墓所は禅幢寺。
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