秋月種信 武士から商人になった朝鮮人

秋月種信

豊臣秀吉が行った海外出兵、文禄・慶長の役。
朝鮮側は女、子どもに至るまで容赦なく犠牲になり、戦いの凄惨さを物語る中で日本の武士として第2の人生を歩んだ朝鮮人もいました。

その人物は秋月種信(あきづき-たねのぶ)。
今回は種信が生きた人生をご紹介します。

長曾我部氏と共に来日

種信は元の名を朴元赫(パク-カンヘキ)といい、秋月城と呼ばれた慶州の小城内で生まれました。
父の朴好仁(パク-ホイン)は秋月城の城主だったので、種信は秋月城で生まれたと考えられます。


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そして天正20年(1592年)から文禄2年(1593年)の間で起きた文禄の役で、種信は家族ともども長曾我部氏の家臣である吉田政重に捕虜として捕らえられます。

このまま処罰を受けるのかと思いきや、長曾我部元親の帰国に伴って家族と共に種信は土佐へ送還され、浦戸城の城下に住むこととなりました。

主家改易で浪人となった種信

種信は元親の小姓として仕え、12歳の時に長次郎と名を変えました。
また、種信の妹は元親の子である長曾我部盛親の妻となりました。

そして種信の運命は慶長5年(1600)に起きた関ヶ原の戦いを機に一変することになります。

関ヶ原の戦い時に盛親が西軍側に味方をし、土佐を没収される代わりに替地を与えられることになったものの、家臣たちが浦戸一揆を起こしたため改易という結果になる事態が起こりました。

これにより大名家としての長曾我部氏は滅亡したため、種信は浪人になってしまいました。

山内氏に仕える

程なくして種信は、新しく土佐に転封した山内一豊から生活を保障し、諸役を免除するという好待遇を持ち掛けてきたので仕えることになります。


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山内一豊はさらに種信たちのために高知城築城を機に後に土佐の唐人町の始まりとなる鏡川岸に住居を与え、さらに秋月の姓も与えました。
秋月の姓は好仁が居城としていた秋月城が由来ではないかと考えられます。

また、一豊は種信たちに扶持米(主君から家臣へ給与された米)を与えていました。
しかし、凶作のために米を与えられないことを家臣が独断で判断したことが種信の父、好仁の逆鱗に触れてしまい、伊予にいる加藤嘉明の元へ行ってしまうという事態になります。

山内一豊は好仁に戻ってくるように使者を出しますが、好仁はさらに福島正則の元へ行ってしまいました。
その後好仁は正則から屋敷と扶持米を与えてもらい世話になりますが、元和3年(1617)の朝鮮通信使と共に朝鮮へ帰国しました。

豆腐商人として

残された秋月種信は唐人町で豆腐の商いを行いました。
豆腐自体は室町時代には日本各地に伝わっていましたが、当時は一般的な食材ではありませんでした。


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種信が豆腐を導入したことにより、土佐でも一般的に食べられるようになったことは種信の大きな功績であります。

秋月種信から始まった秋月氏による豆腐の商いは独占販売であり、それは子孫たちにわたって幕末まで続けられました。

寄稿(拾丸)

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