多羅尾光俊とは【どうする家康】分かりやすく手短に2分で解説~神君伊賀越えを手助け

多羅尾光俊

多羅尾光俊

多羅尾光俊(たらお-みつとし)は戦国時代の武将で1514年に生まれたとされる。
父は近江・小川城主である多羅尾光吉。
母は、三好義継の家老・池田教正の娘とされる。

2023年NHK大河ドラマ「どうする家康」では、俳優のきたろうさんが多羅尾光俊を演じられる。


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多羅尾氏は、近江国甲賀郡信楽荘多羅尾が発祥で、鎌倉時代後期に多羅尾城を築いている。
戦国時代に入ると、三好義継が若江城主だったころ、家老に多羅尾綱知が見られ、三好義継の妹を妻に迎えている。

一方、同族と考えられる多羅尾光俊は、1568年(永禄11年)に六角氏が没落すると、以前から縁があったと言う徳川家康を通じ、織田信長の外様衆になって伊賀攻めにて武功を挙げた。
なお、多羅尾光俊の妻は伊勢貞孝の養女。

1582年(天正10年)、明智光秀本能寺の変が発生。
堺にいた徳川家康は三河へ帰るため、同行していた長谷川秀一が甲賀の多羅尾光俊に支援を求めた。
多羅尾光俊は、徳川家康の一行に宿を提供し、翌日には従者50人と甲賀武士200人を加勢させて、加太峠まで送り届けたとされる。(伊勢・白子まで警護したとも)
将軍(勝軍)地蔵を囮(おとり)として駕籠に乗せていたともさ、のち江戸の愛宕神社に祀られた。


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小牧・長久手の戦いで、多羅尾光俊は徳川勢として参加し浅野長政と戦っている。
そして、和睦の条件として浅野長政からひとり娘を多羅尾光俊の3男・多羅尾光雅の妻に迎えた。
これらの武功により、天正12年(1584年)、多羅尾氏は山城国・近江国に所領を与えられている。

この豊臣勢との縁で、多羅尾氏は豊臣秀吉に従うようになった。
豊臣秀次が近江・八幡城に入ると、多羅尾光俊は豊臣秀次を多羅尾に招いて歓待。
そして、子の多羅尾光太の娘(多羅尾彦七の娘、多羅治郎左衛門の娘)とされる於萬(おまん)が、豊臣秀次の側室になった。
そのため、出世した多羅尾氏は、信楽・近江・伊賀・山城・大和にて合計8万石を領したともされる。
こうして事実上、豊臣秀次の家臣に加わった多羅尾氏であったが、豊臣秀次が失脚すると連座した。
改易・所領没収となり、多羅尾光俊らは信楽にて蟄居。

しかし、1591年、伊賀越えのオンがった徳川家康は、子の多羅尾光雅に甲賀郡信楽3500石を与えている。
また、1596年、子の多羅尾光太も徳川家康の家臣に加わり、先に出仕していた弟・多羅尾光雅の所領を分けられて甲賀1500石を領した。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで、多羅尾光太は筒井定次の与力として参陣。

多羅尾光俊は、慶長14年(1609年)に死去。


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その後の多羅尾氏は、江戸時代に7000石となっており信楽代官領、近江・畿内の天領代官職を代々任された。

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