天秀尼(奈阿姫、豊臣奈阿、千代姫)を徹底的に分析してみたまとめ

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天秀尼とは

天秀尼(てんしゅうに)は、江戸時代初期の1609年に生まれた。
父は豊臣秀頼で当時17歳。

母は不確定要素が多いが、下記の通り。

豊臣秀頼の側に仕えたお伊茶(おいちゃ)殿(和期の方、渡辺五兵衛の娘)が生母とも言われるが、伊茶は国松の母とされる。

また侍女であった成田助直(成田五兵衛、成田助近)の娘・小石の方(おいわ)が母とされ、この成田石は千代姫と指摘することもある。
更に天秀尼の俗名が千代姫(天秀法泰)とする説もあるが、いずれも後年である第10代将軍・徳川家定の長女で早世した千代姫から創作されたか混同された可能性が有る。
なお「岩」というのはキリストの12使徒のペテロを表すため、キリスト教徒だった指摘される場合もある。


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更に成田助直(成田五兵衛、成田吾兵衛助直)の娘・成田石は、同じ成田氏と言う事で、豊臣秀吉の側室になった甲斐姫だとする説があるが、元々、偉大な父の側室に手を出すとはかなり考えにくく、また1609年の甲斐姫は38歳であり、この年齢で豊臣秀頼の娘を出産できる可能性は低い。
なお、北畠一族・伊勢神戸家の家臣・成田隼人正(須賀城主)の娘だとする説もあるが、思いがけず天秀尼を産む事となった成田甲斐姫が自分の出身を偽って記録させたとの指摘もあるが、これも憶測の域を出ないだろう。
成田隼人正正成は徳川家臣で、犬山城主となる成瀬隼人正正成(成瀬正成)だとする指摘もあるが、成瀬正成は徳川譜代の家臣であるため、これは名前が似ているだけで完全な間違え・勘違いと言えよう。
大阪の陣で成瀬隼人正正成(成瀬正成)は徳川勢として、成田正成(成田隼人正正成)は大阪城に入り豊臣勢として戦っている。

なお、豊臣秀頼と正室・千姫の間には子が生れなかったこともあり、側室が産んだ国松も、正室に配慮したのか豊臣秀頼は大阪城外で養育させていた。
天秀尼は岸和田城主・小出吉英の家臣である三宅善兵衛に預けられ、その妻が乳母を務めたようだ。


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鎌倉・松岡御所「東慶寺」に入る

1615年5月7日深夜、大阪城が炎上し、翌日、5月8日に淀殿と豊臣秀頼は自刃し、豊臣家は滅亡した。
側室のお伊茶も一緒に自害したとされる。

落城後に京都郊外にて潜伏していたところを、豊臣国松と共に5月12日に徳川勢の京極忠高に捕らえら、国松は5月23日に田中六郎左衛門、長宗我部盛親と共に六条河原で斬首となった。
この時、大阪城から供をした田中六右衛門と乳母も自害したとされる。
また古田織部は国松を匿った疑いで切腹を命じられた。


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しかし、先に逃れた千姫やお初による助命嘆願により、7歳の天秀尼(奈阿姫)は、千姫の養女となって寺に入ることで命を助けられ、鎌倉の東慶寺に入った。
東慶寺の開基は北条貞時で、開山は覚山尼(北条時宗婦人)。そして、代々関東公方(鎌倉公方古河公方、小弓公方)の娘など、格式ある家の娘のみが住持となっていた。
そして、大阪の陣の頃の19世・瓊山法清は小弓公方・足利頼純の娘であったが、同じ足利頼純の娘に、豊臣秀吉の側室・嶋(月桂院)がおり甲斐姫とも少なくとも顔見知り。
この月桂院はこの時、徳川家康の3女・振姫に仕えていた縁から、東慶寺が選ばれたのだろう。

入山する際に天秀尼は、徳川家康から「何か望みはあるか」と聞かれ、東慶寺の縁切り法が断絶しないようにお願いしたとされるが、当時7~8歳の女の子がこのような事を述べるとは考えにくく、のちの創作であろう。

また、乳母も一緒に東慶寺に入ったとする指摘もあるが、乳母とされる三宅善兵衛の室は、三宅善兵衛が大阪の陣で討死し、小出吉英に預けられたとも、夫婦揃って小出吉英に預けられたともあり、東慶寺に入った足跡は確認できない。

東慶寺での天秀尼

8歳くらいであった天秀尼は、同行した甲斐姫の養育を受けながら、次の住持となるべく学んだようだ。

1616年10月18日、イギリス商館長リチャード・コックスが松が岡を剃髪した女性の尼寺として紹介し「秀頼様の幼い娘がこの僧院で尼となってわずかにその生命を保っている」と記載している。東慶寺は、かつて松岡御所とも呼ばれ、尼寺では格式があり、1591年には豊臣秀吉から450石の寺領も与えられていた。
このように、鎌倉五山第1位の建長寺より遙かに多い寄進を受けていた。

1634年、天秀尼が東慶寺の第20世住職となると、女性の救済活動を本格的に開始し、徳川秀忠に縁切り寺の継続を願い出ている。

1643年、会津・加藤家の家老・堀主水の妻が東慶寺に逃げ込んだが、その女性は夫が謀反の罪を被り高野山に逃れたが、高野山は女人禁制であったため、東慶寺を頼って加藤家から逃れてきた。
加藤家はこの女性を引き渡すよう天秀尼に申し入れたが、この女性は夫とは離縁したいと言った為、千姫に相談すると将軍・徳川家光と交渉してもらえ、女性をそのまま東慶寺にて預かる許可を得た。
このようにして東慶寺は、当時、女性側から離婚申立てが許されなかっ社会において「縁切寺」として、幕府公認の駆け込み寺となった。


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1642年に鋳造された雲板(うんばん)が現存するが、これは天秀尼が父・豊臣秀頼の菩提を弔うために造ったものだとされている。

1643年、千姫が徳川家光の支援を受けて、東慶寺の伽藍を再建。

1645年2月7日、東慶寺の天秀尼が37歳で死去すると、千姫は香典を送った。
天秀尼の墓には、大阪城から付き添ったとも推定されている甲斐姫とする墓も並んでいる。

天秀尼の名前だが、奈阿姫とする説がある。
しかし、千姫の娘・勝姫が嫁いだ池田光政の娘に奈阿姫(なあひめ)がおり、天秀尼の名として創作されたか混同された可能性が大きい。
よって、天秀尼の俗名は不明としか言いようがない。

小石の方と甲斐姫

1598年3月、豊臣秀吉が真言宗の醍醐派総本山・醍醐寺で行った「醍醐の花見」では、正室の北政所、豊臣秀頼、前田利家や秀吉の側室ら女性ばかり1300人以上が列席。

この時に読まれた歌は131首の120番目に甲斐姫が詠んだと考えられる和歌が残っている。
「合おひ乃松毛としふり佐くら咲 花を深雪能山農のと気佐」とあり「可(か)い」と署名されている。
当時短歌では女性は自分の名を変名にて記載するため、甲斐ではなく「可い」と記述したものと見られる。


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注目すべきは、その1つ前である119番目の短冊には「い王(わ)」と署名されている点だ。
この「い王(わ)」は、成田助直の娘・小石の方ではないかと推定されている。

のぼうの城でも登場する、関東の成田氏は、横山党の出身とされるが、初代の名は「成田助隆」であり、小石の方の父とされる成田の名にも「助」がついている。
それを考えると、関東で発展した甲斐姫の成田家とは縁戚であったとも充分考えられ、醍醐の花見の際、119番目、120番目と続けて歌が詠まれた、すなわち隣どおしで列席したと考えても良いだろう。
しかし、豊臣秀吉、その次が豊臣秀頼と、身分が高い者から順番となっていることから、甲斐姫より成田石のほうが1598年の時点で身分が高かった理由が疑問だ。
この時、成田石(小石の方)は、まだ5~6歳ともされ、醍醐の花見は女中も呼ばれていたので、可愛がっていた甲斐姫(27歳)が代詠・代筆したとする指摘もあり、その為自分よりも順番を先にしたとも考えられる。

この点を考慮すると、まず、天秀尼の母が甲斐姫だとする指摘は崩れるだろう。
このように考えると、淀殿からも信頼され豊臣秀頼の守り役もしていたとされる成田甲斐姫は、天秀尼を産んだ成田石(小石の方)からも、姉のように慕われ、天秀尼の養育を甲斐姫が担当していたことが充分可能性としてあるのではと存ずる。


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一方、天秀尼を産んだ成田石(小石の方)の消息(その後)だが、大阪城が落城した際、お伊茶のように自刃した家臣・女性の中にも名は見られず、全く不明である。

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