荒木氏綱 明智光秀の丹波攻めを撃退「荒木鬼」と呼ばれた謎多き豪傑

荒木氏綱




荒木氏綱(あらきうじつな)は、戦国時代
から安土桃山時代にかけての武将です。

赤鬼:赤井直正、青鬼:籾井教業と同じく
姓に鬼を冠し「荒木鬼」と呼ばれ、明智光秀
の丹波攻略を撃退した立役者の一人です。

明智光秀を撃退していることから勇猛な武将
であるはずなのですが、丹波攻め以外にほと
んど資料がなく不明なことが多い人物です。


生没年も定かではなく諸説ありますが、
子孫が秋田藩の藩主となっていることは
はっきりしています。

謎の多い猛将の生涯のご紹介となります。

出自・荒木氏について

出身、生年などは明らかになっていませんが
本能寺の変の後(1582年)まで生きていたと
されています。通称は兵部少輔、山城守。
父は荒木氏義、子に荒木氏清、荒木高兼、
一説によると荒木村重が叔父にあたるとされ
ていますが定かではありません。

▼荒木氏について

元々、荒木氏は丹波国天田郡荒木邑から
興った土豪で、波多野氏の支流と考えられて
います。しかし一説には、以下のように
藤原秀郷の後胤であるとも言われています。

▼平安時代

藤原秀郷の子孫が源頼義に仕えて、奥州征伐
前九年の役)に参加。
その功により志摩国を賜り、同国の富屋城を
拠点とするようになりました。
富屋城が「荒木郷」の中にあったことから、
この藤原秀郷の子孫は「荒木」を名乗るよう
になったと言われています。


▼室町時代

その後、室町時代中期(1460年~66年頃)に
伊勢新九郎長氏(北条早雲?)が志摩国に
侵攻し富屋城は陥落。
生き残った荒木隼人正治尊は、遠縁の八上城
の波多野氏を頼って丹波へ赴きました。
そして、荒木治尊の子、荒木山城守氏香が
京街道の要衝である細工所に城を築いて拠点
としました。また、細工所城(荒木城)の
南方に砦を築き、これを荒木治尊の弟、
荒木安芸が守備しました。これが、
「丹波荒木氏」の始まりだと言われています。

▼荒木氏綱の登場?

上記の人物の中に「出自の不明な荒木氏綱
に該当する人物がいるのではないか?」
という説がいくつかあります。

・荒木氏綱を荒木治尊の弟(安芸)とする説
・荒木治尊の後継者と言われる氏香と氏綱を
 同一人物とする説

いずれにしろ、はっきりとしたことは
わかっていません。

▼戦国時代に至るまで

南北朝時代以降、荒木氏は代々の丹波守護に
恭順の姿勢を見せてきました。
仁木氏、山名氏、細川氏と、丹波守護が変わ
るたびにその帰属を変えていきました。
応仁の乱の後は、丹波でもっとも強い勢力と
なった波多野稙通に従うようになり、
波多野氏の居城八上城の東方の守りとして
細工所城、園部城を中心に統治を行いました。

織田家の丹波攻略以前の荒木氏綱

丹波の国は、亀岡盆地、由良盆地、篠山盆地
など大きな盆地が点在し、お互いの間を山地
が隔てています。そのため、統一が難しく
丹波国としての統一勢力が出にくい環境に
ありました。

戦国時代の丹波国は、内藤氏、赤井氏、
波多野氏が盟主となり、割拠していました。
中でも波多野氏は、居城の八上城を中心
として、多くの城塞を多紀郡一帯に築いて
いました。


その城塞群の一つに、八上城の東方に位置す
る細工所城(荒木城又は井串城)があります。
城主の荒木山城守氏綱は、「※波多野氏旗頭
七人衆」の一人とされています。
※赤井景遠・江田行範・大館氏忠・久下重氏
・小林重範・長沢義遠・荒木氏綱)

荒木山城守氏綱は「荒木鬼」の異名をとる
猛将で、篠山の北方に位置する園部城も
支配する丹波の有力者でした。

織田家の丹波攻略~明智光秀を撃退~

天正三年(1575年)、天下布武に邁進する
織田信長は丹波攻略を決定。明智光秀に命じ
て丹波に軍を進めます。

この侵攻に対し荒木氏綱は、波多野秀治
従い一度織田家に降ります。
明智光秀は、波多野氏が降伏したことで
黒井城に立て籠もる赤井直正に狙いを定め
追い詰めます。
しかし、突如として波多野秀治が織田軍から
離反。波多野秀治の織田家への恭順は最初か
ら偽りであり、山の深い丹波に誘い込んでか
ら、包囲・攻撃をするという赤鬼:赤井悪右
衛門直正が得意とする作戦だったといわれて
言います。

明智光秀は両軍からの攻撃を受け、居城であ
坂本城に撤退。荒木氏綱の所属する丹波軍
は、明智軍を撃退することに成功します。

しかし天正五年(1577年)、
明智軍の丹波への侵攻が再び開始されます。
籾井氏の立て籠もる安口城・
籾井城(安田城)が猛攻に耐え兼ね陥落。
明智軍は、勢いのままに細工所城へ攻め寄せ
てきました。荒木山城守氏綱の立て籠もる
細工所城の壮絶な戦闘の様子は「地獄のよう
であった」と今に伝えられています。


丹波攻めに遊軍として参加した滝川一益等は
力攻めだけでは損害が大きくなることを恐れ
水源を断つ手段をとります。
荒木勢は果敢に抵抗をしたものの、織田軍の
猛攻と渇きの前に降伏したと言われています。

織田信長は、荒木氏綱の武勇を認め、明智光
秀の家来になるよう薦めました。しかし、
明智光秀の軍に一族や家来を殺された荒木氏
綱は、明智光秀への仕官を拒否し隠居を選択
します。代わりに、自分の息子である
荒木氏清を明智光秀に従わせたと言われてい
ます。

天正七年(1579年)、荒木氏綱は、孤軍とな
った八上城に神尾山城主の野々口西蔵坊とと
もに出向きます。
旧主である波多野秀治に降伏を説いたと伝わ
りますが、それが受け入れられたかどうかは
定かではありません。
(波多野秀治の処刑後、降伏したとの説も
あります)

いずれにしろ同年六月、八上城は落城し
波多野氏は滅亡、丹波は明智光秀の支配する
ことになりました。

荒木氏綱(荒木家)のその後

隠居し、息子を織田家(明智家か?)に仕え
させた荒木山城守氏綱ですが、本能寺の変後
の動向には諸説があります。

・明智方に属し、息子の荒木氏清らと共に
 近江・瀬田で戦死(『武家事紀』)
・坂本城に籠城するが、明智秀満の計らいで
 脱出した(『新撰豊臣実録』)

いずれにしろ本能寺の変後、荒木氏綱・
荒木氏清の父子は丹波攻略で敵であった明智
光秀に属して行動をしていた様です。
本能寺の変後も生きていたかどうかは不明で
あり、正確な没年もはっきりしていません。


一方で、荒木氏綱の玄孫の荒木高村は
陸奥国三春藩に仕え、婚姻関係により藩主:
秋田氏の一門扱いを受けることになります。
そして、荒木高村の嫡男・頼季は藩主・秋田
輝季の養子となり、家督を継いで
三春藩4代藩主・秋田頼季となりました。
志摩から丹波。丹波から東北。
荒木鬼の血脈は幕末まで続くことになります。

(寄稿)渡辺綱

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渡辺綱

投稿者プロフィール

日本史を中心として、東アジア史全般(中国、朝鮮、満州)に興味あり。 
好きな作家:司馬遼太郎、黒岩重吾、陳舜臣、海音寺潮五郎、今東光、
      吉川英治、山岡荘八、宮城谷昌光

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