内藤如安の解説「キリシタンの鑑」と称された松永久秀の甥~波乱万丈の生涯

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内藤如安

内藤忠俊(ないとう-ただとし)は、戦国時代~江戸時代前期のキリシタン武将で、松永弾正久秀の甥にあたる人物です。
キリスト教の受洗名がジョアンであったため内藤如安(ないとう-じょあん)と名乗っていました。
幼名は五郎丸。
また、小西飛騨守と呼ばれる時期もありました。
義兄に内藤玄番、妹にジュリア、弟に内藤貞成。

1550年頃、三好家の重臣である松永久秀の弟にあたる松永長頼(内藤宗勝)の嫡子として誕生します。


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将軍(足利義輝)殺し、東大寺大仏殿の焼き討ちなどで悪名高い松永弾正久秀と対照的に、将軍(足利義昭)へは厚い忠誠心を持っており、キリシタンとしてはルイス・フロイスから「日本人の誰よりも信仰厚くキリシタンの鑑である」と称されるほどでした。

戦国武将としては、丹波の支配、足利義昭の家臣として織田信長との交戦。
後に、小西行長の家臣として朝鮮出兵に従軍。
外交官として明への講和の使者となり北京に派遣されています。
晩年は国策としてキリスト教が禁止になったため、高山右近重友と共にマニラへ国外追放され同地で没しています。

キリシタン、戦国武将、外交官、と様々な顔を持つ内藤如安の波乱万丈な生涯についてご紹介します。

キリスト教の洗礼を受ける

父:松永長頼が丹波内藤家を乗っ取るために政略結婚

父・松永長頼は三好家(三好長慶)の丹波攻略で頭角を現し、丹波・八木城を中心に口丹波の統治を任されるようになりました。
進駐軍である長頼は、在地の武士や農民を掌握するために丹波守護代・内藤国貞(丹波・八木城城主)の娘を正室に迎えます。
国貞の子・内藤貞勝の後見をするという建前の元、内藤家への影響力を強めるようになります。

このような丹波・八木城をめぐる情勢の中、1550年、松永長頼と正室・内藤氏との間に内藤如安は誕生します。
フランシスコザビエルが、キリスト教の布教を目的に鹿児島に到着した翌年の事でした。


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1551年、大内義隆に対し陶晴賢が謀叛を起こします。
この争乱から逃れるため、周防山口よりキリシタンのカタリナが丹波八木にやってきました。
カタリナは内藤家家中の内藤土佐という人物と結婚し、周囲の人にキリストの教えを伝えていきます。
内藤如安はこのカタリナの影響を強く受け、キリスト教に傾倒してきます。

内藤宗勝(松永長頼)の勢力拡大

1553年、松永長頼は丹波における勢力拡大のため、兄である松永弾正久秀と共に波多野家の八上城を攻めました。
しかし、手薄になった八木城を三好政勝・香西元成に攻撃され落城。
急遽、軍を返して八木城は取り返しますが、この戦の中で丹波守護代・内藤国貞が討ち死にしてしまいます。
この丹波・八木城の奪還の後、松永長頼は、内藤宗勝と改名。
跡目は国貞の息子・貞勝が継ぎましたが、1556年頃には内藤宗勝が実権を握るようになります。
そしてこれ以降~1560年頃までは、内藤宗勝の絶頂期でした。
丹波は、波多野家の降伏によりほぼ統一され、半ば独立国の様相を示します。
また、若狭の一部にも影響力を持ち、畿内で戦があれば丹波衆を率いて参戦するなど三好家の有力な軍団長の一人になっていました。

内藤宗勝の討ち死に

しかし、1561年の若狭出兵で朝倉義景の援助を受けた武田義統に敗れます。
内藤家の弱体を感じ取った波多野家、赤井家などの国人が丹波国内で反旗を翻します。
1565年、赤井直正を討伐するために黒井城を攻めますが、赤井勢の夜襲を受け内藤宗勝は討ち死にしてしまいます。

父である内藤宗勝の討ち死にを受けて、内藤家の跡目相続で内紛が起こります。

・内藤宗勝の子:内藤如安派
・内藤国貞の子:内藤貞勝派

結果、内藤貞勝が家督を継承し内藤如安は執政の立場となったと見られています。

内藤宗勝の死に前後して、内藤家をとりまく環境も変化しており、
・主家である三好家の急速な衰退
・丹波国内の国人(波多野秀治、赤井直正)の台頭
というように、内藤家の勢力も危ういものになりつつありました。

内藤如安 キリスト教の洗礼を受ける

1565年、内藤宗勝の死の数カ月前に、内藤如安はキリスト教に入信します。

幼少期、五郎丸はカタリナを通してキリスト教に触れることが多く、京都の南蛮寺にも通っていたと言われています。
キリスト教の英才教育を受ける環境は整っており、入信したのも必然のように感じられます。


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ルイス・フロイス(ガスパル・ビレラという説もある)から洗礼を受け「ジョアン」という洗礼名を授けられました。
この後、内藤如安は丹波・八木城に宣教師を迎えて、家族や家臣たちをキリスト教に入信させます。長男はトマス、次女はテクラ、次男はパウロとそれぞれ洗礼名が授けられています。

この後、洗礼・父の死を経て、15歳の内藤如安の人生が大きく変転していきます。

足利義昭への忠節

足利義昭の支援勢力となる

1564年、三好長慶が死去し、畿内では三好家の勢力が大きく後退します。
この機を逃さず、丹波の波多野秀治は内藤家より八上城を奪還。
内藤家の丹波での影響力は徐々に弱まりつつありましたが、内藤如安は周囲の諸勢力と絶えず交戦し、勢力の維持・伸長を図っていました。

そんな中、1568年に織田信長が足利義昭を奉じて上洛を果たします。
当初は友好的であった両者ですが、織田信長が足利義昭の将軍権力の抑制を図る動きを見せます。
そして、信長が17条の意見書を突きつけることで両者の対立が決定的となります。

1573年、織田信長・足利義昭の対立の最終局面の戦が行われます。
織田家の電光石化の作戦により、柴田勝家明智光秀丹羽長秀などの織田家の重臣が義昭の立て籠もる二条城へ迫っていました。
義昭は諸勢力に密書を出し味方に加わるよう促しますが、味方してくれる勢力はなかなかあらわれません。

そんな中、内藤如安は丹波衆2,000を率いて足利義昭方として参戦。
十字架の軍旗を翻し、如安自身は金色のイエズス会紋章を飾った兜を身に付け足利義昭のもとに馳せ参じたと言われています。


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内藤如安が足利義昭に従った理由として、以下の2つが考えられています。

・丹波守護代内藤家としての足利義昭との主従関係(忠義)
・叔父である松永久秀の反信長同盟に関わっていた

この時期まで、内藤如安は

・後ろ盾がなくなっていた(三好家)
・キリシタンであることを家中からよく思われていない

という理由から、内藤家執政として影響力が弱まりつつあったようです。
しかし、出兵するにあたって義昭との主従関係や松永久秀との関係が再確認され、家中での地位が安定したとも言われています。

槇島城の戦い(室町幕府の滅亡)

織田軍との衝突の前、二条城で足利義昭は内藤如安に対して以下の提案を行っています。
目的は、持久戦に持ち込み同盟軍の到着を促すこと。
所謂、時間稼ぎです。

・義昭自身は如安の八木城で防戦をする(山城であり防御に強い)
・如安は二条城で織田軍を迎え撃つ

内藤如安はこの提案に、「将軍が逃げ出したと世間に伝わり、威信を失う(君主のあるべき姿ではない)」ため、考え直すよう説得しています。
義昭は一時は考え直しますが、再度「槙島城」への脱出を試みます。
内藤如安は再考をしてほしいと説得しますが、結局聞き入られず、義昭は槙島城に立て籠ります。

義昭が槙島城に退去した後の内藤如安が戦にどのように関わったかはっきりしていませんが、二条城に立て籠ったか、八木城に戻ったのではないか(槙島城に籠城はしていない)と言われています。

合戦の顛末

二条城は守将の三淵藤英が柴田勝家の説得を受け入れる形で開城。
槙島城は、佐久間右衛門尉信盛、丹羽五郎左衛門長秀、柴田修理亮勝家、羽柴筑前守秀吉、明智十兵衛光秀、荒木摂津守村重、など織田家の第一線で活躍する武将たちに攻め立てられあっけなく開城。
足利義昭は、嫡男・足利義尋を人質に出して降伏。
京都から追放され、ここに室町幕府が滅亡します。

丹波・八木城の陥落

母が殺害される(キリスト教への傾倒)

1573年秋、足利義昭の支援として京都に出兵した後、如安の母が殺害される事件がおこります。

・ある僧侶に財産を目当てに命を狙われ殺害された
・僧侶である内藤国貞(定房?)の兄弟は、内藤家の血縁でない
 内藤宗勝に反感を持っていた。如安が執政になるに及んで、
 その母に如安が城主になることを諦めキリシタンの信仰を捨てる
 ように迫ったが、如安の母がこれを拒否。そのため殺害した。

と理由は諸説ありますが、定かではありません。
そして、この事件を契機に如安の心境に変化が起こります。


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15歳で父を亡くして以来、内藤如安は、八木城を中心として布教活動を行っていました。
わかっているだけでも、日本人の修道士であるロレンソ了斎を3度八木城に招いています。
3度目の八木城訪問では、「内藤如安と家臣が八木城から2里のところまで出迎えに来た。
城には豪華な祭壇が作られており、8日間に70名が洗礼を受けた」と記録されているように、熱心に布教活動を続けていました。

しかし母の死以降、ルイス・フロイスの記録では、如安は執政としての政務を気にかけず、信仰の道に深く入っていたとされています。

内藤如安は母の葬儀について、家臣たちの言う「仏教形式の葬儀を行い仏僧に喜捨する」ことを拒否。
葬儀は簡素にし、丹波一円から約1,000人の貧しい人たちを城下に招き、食べ物などを施し与えた、と言われています。

織田軍の丹波攻略~~明智光秀の攻城戦の前に落城

1575年、長篠の合戦で武田勝頼に勝利した織田信長は、終戦の翌月には明智光秀に「丹波攻略」を命令しています。

明智光秀は、1577年、1579年の2度に渡り八木城を攻め、これを落城させています。
内藤有勝と言われる人物が落城時の八木城主とされており、これが内藤如安ではないかとの説があります。

ジョアン内藤飛騨守忠俊顕彰碑

また一方で、もともと執政という微妙な立場であった上に、内藤一族をあげて加勢した足利義昭が敗北。
このため家中で権力を失い、失脚しており丹波・八木城にいなかったとの説もあります。

以上のように、明智光秀に対して、八木城の守将として如安が立ちはだかったかどうかは定かではありません。
ただ、1581年頃、毛利領の鞆の浦へ逃れていた足利義昭の元にいたのは確かなようです。

鞆の浦での日々

若くして父を戦で失い、母も失い、また執政としての地位も失った如安。
この後、1587年頃に小西行長の家臣となるまで足利義昭の元、毛利領の鞆の浦で過ごすことになります。
足利義昭の側近の教養人に接する機会が増え、如安は学問三昧の日々を送ります。
またこの時期にキリシタンの女性を妻として迎えています。


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足利義昭の元にいる間に、本能寺の変や豊臣秀吉の関白就任等、時勢は刻々と変化していきました。

朝鮮出兵に従軍

キリシタン大名・小西行長の重臣に

1583年、毛利輝元が羽柴秀吉に屈したことで、足利義昭と秀吉の関係も修復していきます。

1585年、政局が激変する中、内藤如安は秀吉の重臣として台頭していた小西行長に仕えることになります。
小西行長は、遠縁にあたり有能な内藤如安を親類衆として重臣に取り立てます。
また、内藤如安に小西姓を名乗ることを許しています(小西飛騨守)。

1587年、豊臣秀吉によるよるバテレン追放令が発布されます。

キリシタン武将として有名な高山右近重友は、他のキリスト教を信奉する大名へも影響が大きいとみられ、秀吉から「棄教か大名をやめるか」の選択を迫られました。
内藤如安の盟友でもある右近は、信仰を守ること第一とし播磨明石6万石を捨てることを選びます。
如安が直接秀吉から棄教を迫られることはありませんでしたが、目だたぬようにしながらキリシタンとして信仰を守り続けたと考えられます。

文禄の役での日本軍快進撃

1590年、小田原の北条氏直を降伏させ天下統一を果たした豊臣秀吉。
1592年、明との貿易が目的であった、など諸説はありますが、宇喜多秀家を総大将として朝鮮への出兵を開始します。

4月12日、第一軍の小西行長は釜山城周辺の攻略を開始。
第二軍の加藤清正鍋島直茂、第三軍の黒田長政、第四軍の島津義弘などが続々と朝鮮半島に上陸し、開戦から21日後には漢城(現在のソウル)を攻略。
その後も、快進撃を続け、日本軍は朝鮮全土をほぼ制圧、明との国境まで軍を進めることになります。
しかし、
*日本軍内部での対立(小西行長、加藤清正)
*冬の寒さによるストレス(軍を構成していた西国勢は寒さに弱い)
*伝染病の蔓延
*食料補給が不十分
などの状況が重なり戦の継続が難しくなりつつある中で、明との和平交渉を開始することになります。

開戦前から朝鮮との交渉を任されていた小西行長が交渉の責任者とされ、講和の使者として、内藤如安が選ばれました。

講和の使者として明へ

小西行長より命じられ、如安(小西飛騨守)は日本の大使として首都である北京に赴くことになりました。


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しかし、鴨緑江を渡り明国内の遼陽まで来た時、この地で1年以上足止めをくらうことになります。
*日本との講和について北京内の朝廷で意見が割れていた
*徹底抗戦の姿勢をとる朝鮮の慰撫に時間がかかった
上記が理由とされています。

この侵略戦争を終わらせたい、という考えは小西行長にも内藤如安にもあったはずで、それをなんとか叶えるため彼らは奮闘します。

この間も小西行長と明の沈惟敬とで交渉は続けられていました。
明側の講和条件と秀吉の講和条件が折り合わない中、両人は知恵を絞りましたが、結論として「秀吉の意図と違う条件(明側が納得する条件)」で交渉を継続すること、にしました。

そして1594年12月、ついに如安は北京入りを果たします。
ここで、明から
*日本軍の朝鮮からの全面撤退。対馬からも撤退すること
*明と冊封関係になっても、通称はしないこと
*朝鮮と修好すること。共に明の属国となり朝鮮に侵略しないこと。
という条件を突き付けられますが、如安は講和の大使として同意しています。

独断であったかどうかはわかりませんが、早期に和平を実現することへの意思を感じます。

あとは、講和の仕上げです。
明の国書を秀吉に届け納得してもらうのみですが、大阪城での明使との交渉の最後の局面で「明が秀吉を日本国王に封ずる」ということに対し秀吉が激怒。
交渉は決裂します。
豊臣秀吉を謀り、終戦のために命をかけた小西行長、内藤如安の苦労は報われることはありませんでした。

高山右近とマニラへ

文禄の役の後、再度の朝鮮出兵(慶長の役)が行われますが、その最中に豊臣秀吉が死去。
時を経ずして関ヶ原の戦いが起こります。
小西行長は石田三成軍の主力となりますが西軍は敗北。
小西行長は刑死してしまいます。

主人をなくし牢人となった如安は、肥後の加藤清正に仕えることになります。
しかし、政敵:小西行長の家臣であった如安への風当たりは強く、棄教を迫られることもあり、追い詰められていきます。


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そんな折、同じキリシタンであり盟友である高山右近より誘いがありました。
1603年、4,000石で加賀前田家の客将となり、この地で布教活動に熱心に取り組みます。

マニラでの余生

大阪の陣が始まる直前である1613年、徳川家康はキリシタン追放令を出します。
1614年、この法令の元、高山右近、内藤如安、妹のジュリア等はフィリピンのマニラへ追放されました。

マニラでは日本人キリシタン町・サンミゲルを築いたとされます。
また、翻訳に従事していたという記録もあります。

1626年、73年に死去。
サンミゲル近くにある聖ビセンテ・デ・パウル教会に終焉の地として記念の十字架が建っています。
亡骸は、マニラ市郊外の高山右近の墓の隣に埋葬されたと伝えられています。

なお、内藤如安の縁により
*八木城のあった船井郡旧・八木町
*マニラ
は姉妹都市となり、八木町合併後の南丹市も姉妹都市の提携を継続しています。

内藤如安の子孫は日本に帰って生き続けた、とも伝わっています。

(寄稿)渡辺綱

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