榊原照久(さかきばら-てるひさ)(初名は清久)は、天正12年(1584年)に榊原清政の子として生まれた、江戸時代前期の武将・神職である。
照久は、目立った武功などを挙げた記録は見当たらないが、晩年の徳川家康の側近くで忠実に仕え、家康はその人柄を見込み、照久に特殊ともいえる任務を命じた。
家康は、なぜそこまでの厚い信頼を照久に寄せたのか、その過程を見ていきたい。
榊原康政の甥
父・清政は、榊原康政の兄で、照久は康政の甥にあたる。
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本来なら兄の清政が、康政より活躍していてもおかしくはない立場だが、清政は病弱であったようで、康政が名代を務めることが多く、榊原家の家督も康政が相続している。
清政は慶長12年(1607年)2月、大御所・家康の駿河・駿府城入城に際して、戦時の詰めの城である久能城(久能山城)の城代として久能城に入城するが、その時には病状も芳しくなく同年の5月に死去し、それに伴い照久が久能城代を継承した。
久能山こそ駿府城の本丸
要衝を任された照久には、主君を護るという明確な職責がある。
照久は、大坂の陣に際して出陣を願うが、「久能山は駿府城の本丸であるから留まり守れ」という家康の厳命により久能城に留まった。
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大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼした家康は、駿府で悠々自適な隠居生活を送る。
家康は元和2年(1616年)1月、鷹狩りのために立ち寄った田中城で、豪商・茶屋四郎次郎に鯛の天ぷらを勧められ、それを平らげた直後に体調を崩したといわれるが、この鯛を献上したのが照久であった。
照久は、自らが献上した鯛が体調悪化の原因かと思ったら、死んで詫びたいと考えたに違いない。
大御所様の御遺命
家康は駿府城に帰り療養に努めるが、4月になると病状は悪化する。
再起の不能を知った家康は、本多正純・天海・崇伝を呼び寄せ、「遺体は久能山へ、葬儀は増上寺で、位牌は大樹寺に、一周忌ののち日光に小さな社を建て、勧請すれば関東の鎮守となる」と遺命した。
それとは別に、もうひとつ重要な遺命があった。
家康は照久を呼び寄せ、「汝は幼少から常に怠らずよく仕え、魚や作物などの新物を献上してくれた。余は死んでも、汝の供える物を快く受けたい。そして西国の平安のため、汝は我が遺体を西に向け、久能山の祭主となれ」というものだ。
家康は、照久の膝を枕にして臨終したと伝わり、亡骸はその夜に久能山に埋葬された。
鯛を献上した照久にとって、叱責されるどころか、働きを大いに褒められ、これまでと同じように仕えろという家康のこの言葉で、照久の残りの人生が決定し、幕命により久能山東照宮の初代祭主として久能山に留まった。
死しても大御所様の御側で
その後、照久は夢に家康のお告げを受け、初名の清久から改名している。
照久は元和8年(1622年)に、従二位に昇叙されるが、これは久能山東照宮が伊勢神宮より上位に位置したいといった政治的な背景や意図が見える。(当時の伊勢神宮の祭主は正三位)
照久はその後も家康の遺命を守り、榊原家は代々、久能山の神廟を護ってきた。
家康は、照久への厚い信頼があってこそ、久能山を重視できたのだ。
榊原照久、正保3年(1646年)8月7日、死去、享年63歳。
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照久は久能山の麓に寺院を建立し、自らの名を付けて照久寺とし、同寺に埋葬された。
まっすぐ久能山の頂上に向かったその五輪塔からは、主君を見守る凛とした眼差しを感じた。(照久寺は宝台院別院として現存)
(寄稿)浅原
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