足利義持の解説~相次ぐ国難に向き合い室町幕府体制を真に確立した4代将軍

足利義持

足利義持とは

足利義持(あしかが よしもち)は室町幕府第4代将軍で、法皇として権勢を誇った、足利将軍3代・足利義満の3男として、1386年に生まれました。
 
足利義持は幼少の頃から父・足利義満の後継者としての教育を受け、僅か9歳で将軍に就任します。
そして足利義満は出家して金閣寺のある北山へ移り、足利義持は室町を譲り受けます。
とはいえまだ幼い足利義持に政務が行えるはずはないので、斯波氏や畠山氏といった有力守護大名が足利義持を支え、また足利義満も一定の影響力を保持します。
足利義満が亡くなるまでこの体制はしばらく続くことになります。


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この時期、足利義満は将軍である足利義持よりもその弟である足利義嗣を優遇していたと言われています。
小松天皇との宴の際には足利義満は足利義嗣と共に宮中に参内し、足利義持を京の警護にあたらせたのはその一例です。
ただ室町幕府は京都にあったことからどうしても天皇や公家といった朝廷との付き合いが密になります。
そして蹴鞠や笙の演奏など公卿としてのたしなみは義持よりも足利義嗣の方が優れていたため、朝廷との交遊には足利義嗣を起用し、政務は義持に行わせるといった棲み分けがされていただけなのかもしれません。
将軍職もゆくゆくは足利義嗣にといった思惑まで果たして足利義満にあったのかは判然としていません。
後に足利義嗣は後述する上杉禅秀と連携して謀反を計画したとの疑いをかけられ、自害を迫られるという悲劇的な最期を遂げます。

親政の開始

足利義満が51歳でこの世を去るといよいよ足利義持の親政が開始されます。
まず最初に行ったことは政治拠点の移転です。三条坊門に新御所を造営し、足利義満時代に中心地とされていた北山より移り諸大名もこれにならいます。
その様相は金閣寺に代表されるような派手なものではなく、中国古典や禅宗信仰に基づく質実剛健なものであったようです。


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足利義持の治世においてたびたび各地で反乱が起きています。飛騨において姉小路尹綱が幕府に背くと京極高光に命じて討伐させます。
その後、義持は守護大名に対する統制を強化し、興福寺などの寺社勢力に対しても紛争につながる行動を厳しく取り締まります。
さらに朝廷においても関白として振る舞い、公家に対する足利家の立場を確立します。その最中、伊勢にて北畠満雅が挙兵すると一色義範を総大将とした幕府軍を差し向けてこれを鎮圧します。
そして関東では上杉禅秀の乱が勃発します。当時、鎌倉公方であった足利持氏が関東菅領の上杉氏憲の攻撃を受けたことが始まりでした。
この争いで東国勢力は二つの陣営に分かれて行きます。この事態を重くみた義持は幕府軍を出動させ持氏を支援し、氏憲を討つことでこの乱は収束したかに見えました。
ところが足利持氏は上杉氏憲に与した勢力を許さず徹底的に殲滅する動きを見せたため、関東情勢はなかなか落ち着きません。
最終的には事態の早期収集を望む幕府側に持氏が恭順の意を示すことで決着しますが、後々に幕府と鎌倉公方の間で対立の火種を生むことになります。

足利義持が行った対外政策としては明との断交があります。正確には冊封体制からの離脱なのですが、これは義満が明との貿易を行うにあたって日本が明の臣下になることを受け入れてから続いていた関係を断つことを意味していました。
この申し入れに対し、明の永楽帝は激怒し武力行使も辞さない構えを見せます。
結果的には明が積極的に行っていた海洋進出を控えるようになったことや、それまで沿岸部を荒らし回っていた倭寇の勢力が衰えたことで何とか事を構えずに収束します。


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なぜ足利む義持はこのような転換を行ったのでしょうか。
それはこの時期国内を襲った危機、すなわち応永の大飢饉に起因します。
科学の存在しない時代において災害や天候不良による飢饉は神々が下した罰であるとされ、為政者は自らの不徳に原因があるとして大変怖れたのです。
そこでかねてから国内で評判の良くなかった明への従属関係を解消し、神の怒りを鎮めようとしたわけです。
また、ほぼ同時期に李氏朝鮮の軍が対馬に侵攻する事件が起きます。どうも倭寇の鎮圧が目的であったようですが、現地を治めていた宗氏が僅かな手勢で巧みに迎え撃ち、撃退することに成功しています。

後継者問題

さて、飢饉が一段落すると今度は後継者問題が浮上します。
足利義持は将軍職を息子の足利義量に譲り、自らは出家して以後は信仰に生きるつもりでした。ところがその足利義量が僅か19歳で病死してしまいます。
将軍になって僅か2年のことです。
その後、足利義持は新たな後継者を定めることなく失意のまま酒に入り浸る生活を送り、やがて病に倒れ三条坊門第にて息を引き取ります。43年の生涯でした。


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足利義持の歴史的評価はいかなるものでしょうか。
一般的には絶大な権力を振るった父・足利義満の影に隠れ、あまりよく知られていない人物といった印象を受けます。
しかしながら室町幕府の体制を安定化させたのは義持なのです。義持は朝廷における足利家の立場を義満の頃は特例で法皇待遇であったのを摂関家に相当するものとして定着させました。
そして天皇家の補佐役としての立場を明確化することで公武関係を安定化させたのです。さらに幕府が所領などの訴訟手続を行うようになった他、財政機構の再編をするなど行政の基礎固めを行っています。
一方、各地で起こる内乱に悩まされ、外交では明や李氏朝鮮との緊迫した事態に向き合い、大飢饉にも対処するなど相次ぐ国難への対応に追われた治世でもありました。
それでも体制を瓦解させず、次の世代へ幕府による統治を繋いだのです。
足利尊氏により開かれた室町幕府は南北朝の内乱期を経て足利義満の時代にひとまず国内の支配者としての地位に立ちます。
その後を足利義持が安定化させた時点で約100年が経過し、さらに140年近く続いていきます。
その間にも体制を揺るがす事態は度々起きますが、室町幕府が日本の歴史の中でも有数の長期政権となり得るのに足利義持時代が果たした役割は大きかったのではないでしょうか。

(寄稿)Alphan

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