湯川直光と湯川直春 南紀御坊で湯川衆を率いた武田一族?

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湯川直光

湯川直光(ゆかわ-なおみつ)は、湯川衆である湯川政春の長男として生まれました。
湯川氏の祖は諸説ありますが、清和源氏武田氏ともされ、家紋も同じです。
武田説の説明ですが、常陸・武田氏館から甲斐の武田となり、初代の武田氏になった武田信義がいます。
その甲斐・武田信義の弟で、山梨県南アルプス市の奈胡庄を領した奈胡義行の子孫・武田家弘の孫の武田忠長とされます。
他にも、武田信義の孫・武田悪三郎信忠が湯川氏を称したとありますが、いずれによせ、甲斐の武田家から移住したようです。


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一般的には、鎌倉時代の1229年に武田氏と縁がある熊野に、武田忠長が移住したか配流されたかで移ってきたようです。
受け入れたのが、湯川庄司と言う土豪で、武田忠長は湯川庄司の娘・お葉と結婚して婿入りしたようで、湯川忠長と称しました。
紀伊・泊城を最初の本拠地としたようです。

なお、悪行名高い武田信忠(武田悪三郎信忠)が、北条泰時に湯川庄(御坊市湯川町)を与えられたともあり、その子孫が湯川庄司を名乗っていたともされます。

まぁ、ここで説明している私も、把握するのが大変でして、このくらいで湯川氏の祖に関してはやめておきます。

戦国時代の初期、湯川党は紀伊守護の畠山尚順にしたがっていました。
しかし、畠山尚順は湯川氏などを討伐しようとしたようで、1520年8月頃、日高の旗頭で内衆の野辺慶景と湯川光春・玉置氏らは反乱を起こして、畠山氏の代官とも言うべく林堂山樹を殺害しました。
そのため、畠山尚順は遊佐氏らと紀伊を捨てて堺に逃亡し没落しています。
なお、1522年?に、紀南の紀伊・亀山城主の湯川光春と、みなべ町の平須賀城主である野辺慶景(のべ-よしかげ)が連合して、紀伊・広城へ攻めて落としたとありますので、かろうじて畠山氏の勢力も残っていたようです。
この畠山氏を駆逐した、湯川光春と言う武将ですが、湯川直光の子である湯川直春の嫡子・湯川丹羽守光春と言う事になります。
11代・湯川直光の生年は不明ですが、没年は1562年です。
12代・湯川直春も生年は不明ですが、没年は1586年です。
これに対して、湯川光春は3代目とする資料もあります。
そのため、1522年に活躍した湯川光春は、湯川丹羽守光春とは別人の一族なのか?、それとも史料の誤記なのかな?、年代がそもそも間違っているのか?と言う感じを受けます。
結局のところ、湯川光春に関してはよくわかりません。

ともあれ、湯川直光は1549年に、平時の屋敷として紀伊・小松原館を新たに築いたとされます。
戦国期になり、争いが活発化してくる中、山城からわざわざ平城にしたのは、なんでも「紀伊・亀山城は寒風の季節は住みにくい」との理由だったと伝わります。

1558年に、安見宗房と対立した畠山高政が紀伊に下向すると湯川直光は迎え入れました。
そして、1559年、三好長慶と湯川直光の尽力にて、畠山高政は河内・高屋城に復活したことから、奉公衆として湯川直光は高く評価されています。
ところが、1560年、畠山高政は三好長慶と対立して飯盛山城主・安見宗房と和解したことから、久米田の戦い、教興寺の戦いと三好長慶の侵攻を招きました。
1562年、教興寺の戦いには、畠山高政の要請を受けて、雑賀衆からは土橋種興・鈴木重興、根来衆は津田算正、湯浅衆からは湯浅宗政・保田知宗らが出陣しました。
このとき、湯川衆としては、湯川直光・目良高湛・野辺光房・玉置直和・貴志光宗・龍神正房・山本忠朝・安宅光定・周参見氏長・小山隆光らが畠山勢に加わっています。
しかし、鉄砲隊の攻撃を防ぐために、雨を待っていた三好長慶が反撃出ると、三好義興らの攻勢を受けて湯川衆が総崩れとなり、湯川直光や湯川帯刀・安宅光定らは討死しました。
そのため、跡を長男・湯川直春が継いでいます。


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湯川直春(ゆかわ-なおはる)は、まだ若かったようで、叔父・湯川宗慶が後見しました。

1568年、織田信長石山本願寺本願寺顕如が対立すると、雑賀衆と同盟していた湯川直春は、本願寺に味方します。
足利義昭が紀伊・泊城に逃れると、湯川直春に帰洛への協力を要請もしています。
そのため、1582年、本能寺の変のあとも羽柴秀吉と対立し、1585年にはついに紀州征伐を受けました。
この時、湯川衆としては田邊の目良氏、真砂の真砂庄司、一ノ瀬の山本氏、近露の横矢氏、安宅の小山氏らが従っています。
しかし、湯川直春の娘婿である手取城主・玉置直和が豊臣勢に寝返ったため、1585年3月に200の兵にて手取城を攻めて落としています。
4月になって、仙石秀久中村一氏が、紀伊・亀山城へ迫ると、湯川直春は小松原館を焼いて、山に籠りました。
叔父・湯川教春が治めていた田辺の泊城(泊山城)に隠れたともあります。

そして、9月24日、榎峠の戦いにて湯川直春は敗れて更に山中へ引き籠っては、また再度攻勢に出るなどゲリラ戦を展開しました。
湯川衆である山本康忠の龍松山城に入って3ヶ月間籠城したともあります。
これには、豊臣勢の杉若無心桑山重晴・尾藤下野守らも苦戦したことから、豊臣勢は湯川氏と和議を結んで本領を安堵しています。
少ない兵力にも関わらず、神出鬼没の戦い方をして和睦に持ち込んだと言うのは、ものすごい戦略と申しましょうか、スゴイことですのて、称賛に値すると存じます。
しかし、1586年、新たな紀伊の領主となった大和・郡山城主である羽柴秀長に挨拶にと、湯川衆の龍松山城の山本康長(山本主膳)らと出向いています。
ただし、帰り道に湯川直春ら13名は、紀和国境真土峠の藤堂高虎の屋敷にて毒殺されたと言われています。
豊臣勢の攻め手の武将は、手こずったことで戦功にならず、恨んでいたのかもしれません。

ただし、子の湯川光春は豊臣秀長の家臣となり3000石を領しました。
豊臣秀長が没すると、和歌山城主となった浅野家に仕えましたが、浅野長晟と共に安芸に移ると、宮島奉行を勤めたと言います。


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湯川家四天王のひとりには、八千貫城主の津村信秀(つむら-のぶひで)がいます。
天路山城主としては湯川直光の子・湯川弘春の名が見受けられます。

紀伊・小松原館 湯川氏の居館跡・湯川氏館
紀伊・亀山城 湯川氏の本拠地である御坊の詰城
桑山重晴とは
紀伊・手取城 玉置直和と玉置永直の本拠地
紀伊・泊城(芳養泊城) 湯川氏の最初の本拠地と杉若無心
龍松山城 最後の当主・山本康長は3ヶ月籠城するも
浅野長晟と浅野長重 赤穂浪士へと繋がる関ヶ原以降の浅野家
紀伊・雑賀城 豊臣勢に雑賀衆が抵抗した拠点と雑賀撃ち
和歌山城 紀州藩の大城郭で麗しき日本100名城

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