菅沼定忠と田峯城の復元された本丸御殿と武田勝頼が逃れた武節城~菅沼定利も


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菅沼定忠(すがぬま-さだただ)は、田峯菅沼氏である菅沼定継の子となるが生年や母は不詳となる。

この田峯菅沼氏の祖は、土岐源氏の流れを汲むと言われる菅沼定成の長男・菅沼資長で三河・田峯城(だみねじょう)に入った。
その田峯城の様子と共に、菅沼氏をご紹介したい。

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菅沼家は、島田菅沼氏、井代菅沼氏、野田菅沼氏、長篠菅沼氏と多くの分家があるが、ここの田峯菅沼氏が本流・宗家となる。

菅沼定忠の父・菅沼定継(すがぬま-さだつぐ)は、田峯菅沼氏の4代目で今川家に臣従しており、妹が奥山城主・奥平貞勝の継室となっている。

その奥平貞勝が1556年2月に今川から離反して織田家に寝返った際に、島田菅沼家の菅沼孫太夫共と共に加担して、今川勢の秦梨城を攻撃するなどした。

しかし、弟の菅沼定直、菅沼定氏、菅沼定仙らは同調せず、他の分家も大半は今川に留まったため、菅沼宗家としての面目を無くした。

駿府の今川義元が本格的な討伐軍を送ると、奥平城(作手城)の奥平貞勝が降伏してしまい菅沼定継は孤立する。

田峯城は、弟らの菅沼一門の攻撃を受けて陥落。
1556年8月21日、菅沼定継は黒ヌタという所まで逃れたが自刃して果てたと言う。(討たれたともある。)

この時、捕虜となったのが、まだ幼かった小法師(菅沼定忠)で、菅沼一族は、小法師(菅沼定忠)を新たな総領として、今川義元に忠節を誓ったと言う事になる。

こうして、田峯城主となった菅沼定忠(菅沼刑部少輔定忠)であるが、織田信長によって桶狭間の戦いにて今川義元が討死すると、永禄4年(1561年)には松平元康(徳川家康)に臣従して、所領を安堵されている。

その後、武田信玄が本格的に三河に進出してくると、1571年、菅沼定忠は武田家の秋山虎繁(秋山信友)2300に攻められ降伏したようで、以後、菅沼一族を武田家に誘う立場となる。

また、武田に従った犬居城主・天野景貫が攻めても落ちなかった長篠城攻略のため、秋山虎繁(秋山信友)は菅沼定忠に命じて、長篠菅沼氏の菅沼正貞を説得したようで、長篠城は武田の支配下となった。

更には1571年4月、武田家臣山県昌景・小笠原信嶺らが大野田城(野田城は破壊されていた)の野田菅沼氏・菅沼定盈を救うため、菅沼定忠は家老・城所道寿に命じて、わざと道に迷わせて、城攻めを明け方まで遅らせたと言う。

以後、山県昌景の与力に組み込まれ、田峯の菅沼氏、作手の奥平氏、長篠の菅沼氏は「山家三方衆」(やまがさんぽうしゅう)と呼ばれた。
田峯菅沼家からは家老・城所道寿の娘と、家老・伏木久内の弟が人質として武田家に出されている。

1572年、武田信玄が西上作戦を開始すると、徳川家康との三方ヶ原の戦いにも菅沼定忠は40騎にて参じており、1573年1月~2月の野田城の戦いにも武田勢として参加した。
しかし、武田信玄のは病状が悪化して、甲斐へ戻る途中に病死する。

そのため、山家三方衆も奥平貞能・奥平信昌と菅沼定盈は徳川家に寝返り分裂したが、武田勝頼の代になっても、武田家に従っていた菅沼定忠と家老・城所道寿は兵200にて、1575年、長篠の戦いでもその名が見られる。

長篠で大敗して敗走する武田勝頼を菅沼定忠は助けて同行し、最初、居城の田峯城に一緒に入ろうとした。
しかし、田峯城の留守を任せていた親族・菅沼定直と重臣・今泉道善が入城を拒否して、数騎の武田勝頼を拘束しようとしたため、菅沼定忠と武田勝頼は更に逃亡して、菅沼定忠が支配していた武節城まで逃れた。

ちなみに、長篠合戦の戦場にあった武田勝頼本陣から田峯城のでは約19kmで歩くと約4時間の距離。
田峯城から武節城までは、更に遠くてプラス約30km、徒歩7時間も掛かる。

武田勝頼らは武節城にて一泊したが、菅沼定忠も田峯城に復帰するどころか、武節城を徳川勢になっていた奥平氏に攻められて留まる事もできず、家臣らと武田領の伊那・飯田(浪合村)まで退いている。

なお、菅沼定忠には子と考えられる菅沼定利(すがぬま-さだとし)がいるが、生年や母は不明。
この菅沼定利は、長篠の戦いのあと、野田菅沼氏の菅沼定盈を頼って徳川家康に仕えており、以後は徳川家の家臣として働いている。

一方、伊那に逃れていた菅沼定忠と城所道寿は、故郷に戻れずにいた兵を密かに武節城に集め、翌年1576年7月14日早朝、徳川勢に寝返っていた田峯城を攻撃した。
一説ではこの時「お盆」で、田峯城の城兵は家に帰ると言う慣わしがあったと言い、守備が手薄になっているところを、菅沼定忠らは未明に夜襲したと言う。
また、復讐に備えて、絶望のあまり菅沼定忠らは自害したとの噂を事前に流して、田峯の菩提寺に遺髪まで届けて、卒塔婆まで立てていたとも言われる。

菅沼定忠ら叔父・菅沼定直を討ち取り、城内で捕縛した一族郎党96名を惨殺し、主犯格の今泉道善は首だけ出して生き埋めにされ、その首を鋸引きの刑にして処刑したとある。

以後、このように復讐が早く成功したことから、以後、田峯の里付近では、物事が短期間で解決したり、早く終わった時に「田峯のお城ではないが、早く終わった」と言うように、一言付け加えるようになったと言う。

ただし、田峯菅沼氏も、長篠の戦い、そしてこの田峯城の戦いにて、家臣団は壊滅的であり、菅沼定忠は先祖伝来の地を捨てて、武田勝頼を頼って伊那に戻ると下条信氏の配下に加わった。

1582年に、武田家滅亡した際に、菅沼定忠は徳川家康に赦免を願い出たが許されず、信濃国伊那郡知久平にて、三河・牛久保城主の牧野康成に攻められて命運は尽きた。

1584年、徳川家康は伊那の支配の為に、徳川家臣となっていた道目記城主・菅沼定利を派遣して田峯菅沼家の家督を継がせて安定化を図っている。
菅沼定利は知久平城に入ったあと飯田城を居城としたが、菅沼定利は菅沼定忠に討たれた叔父・菅沼定直の嫡子であるとする説もある。

1590年の小田原攻めのあと、上野・吉井城にて20000石となっている。
ちなみに、菅沼定利は主に徳川秀忠につけられており、関ヶ原の戦いの際には、真田昌幸が籠った上田城の戦い(第2次上田合戦)にも参加している。

1602年に菅沼定利が没したあとは、養子である奥平信昌の子・奥平忠政が継いだが、美濃・加納城へ転封となっている。

田峯城

田峯城(だみねじょう)は標高383mにある山城で、麓の伊奈街道との比高は156mとなり、別名を蛇頭城(じゃずがじょう)とも言います。
しかし、城のすぐ北側は、現在、田峯小学校もある下界とは隔離されたような集落になっており、集落の道路から田峯城との比高は僅か24mです。

すなわち、高台にあるのが田峯の里と言う事になるため、麓の伊奈街道からは比較的狭い山道を登って行くと、大きく開けた場所に出ると言う感じになっています。
下記は田峯城から撮影した田峯地区です。

現在は、クルマで直接、田峯城の城域にある駐車場(トイレ完備)まで上がっていく事ができます。

そして、田峯城の素晴らしいところは、その遺構もさることながら、城が復元されていることです。
もちろん、史料などは乏しいので「模擬」ではありますが、総工費2億3000万円掛けたとの事ですし、その心意気は評価しなくてはなりません。

田峯城は有料拝観となり、本丸御殿のところに受付があります。
受付は朝9時~16時で、お休みは月曜日・祝日の翌日 年末年始(12/29-1/3)となっています。
なお、本丸御殿の内部も見学可能です。

駐車場がある場所ですが、下記の当方オリジナルGoogleマップにて明示させて頂いておりますので、ご参照賜りますと幸いです。

井伊谷や直虎ゆかりの観光スポット・Googleオリジナル地図

最後に武節城ですが、武節城の駐車場も上記のGoogleマップでわかります。

武節城

武節城(ぶせつじょう)は別名を地伏城(じふせ)・竜の城とも呼ぶ平山城で、標高は550m、比高は麓の旧飯田街道とで50mです。

永正年間(1504年~1521年)に菅沼定信が築いたあと、菅沼定信の時には田峯城の支城として、一族の菅沼十郎などが城代を務めていました。

なお、弘治2年(1556年)に武田家の下条信氏が攻めており、激戦の末に落城すると、武田の支配下となっています。

1575年、長篠合戦で敗れた武田勝頼が甲斐へ逃れる途中に寄ったのは、上記で説明してきたとおりです。

武田勝頼は「梅酢湯」を飲んで、信濃へと向かったと言います。
写真に白いものが写っているのは「雪」です。

その後、徳川家の酒井忠次が武節城を攻め、以後は奥平信昌の所領となりました。

山頂の主郭には城山神社があり、その直下の二の丸まで、北側から狭くて急坂ながらも舗装路があり、クルマで本丸直下まで登れます。

ただし、西側には道の駅「どんぐりの里いなぶ」もあるので、そこの駐車場に車を止め、歩いて登るのも良いでしょう。

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