荒木村重の継室? 荒木だし (荒木ダシ、たし)

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 荒木ダシは、有岡城主・荒木村重の正室だとされるが、1561年に荒木村重は正室・北河原長勝の娘との間に嫡男・荒木村次が誕生しているので、荒木ダシは「継室」又は「側室」と呼んだ方が無難か?
 「だし」という名前はクリスチャンネームとする説もあるが真偽のほどは不明。 
 だしは「多子」と書くと言う説もあり。

 いずれにせよ「たしと申はきこへ有る美人」「今楊貴妃」「一段美人に候」と例えられるほどの絶世の美女であったようで、美女の中でも最上級と言う表現が用いられている。

 他には荒木村重の子に荒木村基、岩佐又兵衛(岩佐勝以)らがいるが、荒木ダシが生んだ子であるかどうかは確証がない。と言うより、荒木村重は反逆の将であるため、資料が極端に乏しい。
 (下記写真はNHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」より)

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 荒木ダシの夫である荒木村重は、摂津池田家(池田城主)の家臣・荒木義村(荒木信濃守義村、異説として荒木高村)の嫡男として生まれた。
 最初は池田勝正の家臣として仕え、池田長正の娘を娶り池田一門衆となっているので、その話をそのまま捕えると、荒木ダシは、池田長正?の娘と言う事になる。

 この池田家は、織田信長の乳母の子として池田氏を名乗る池田恒興(いけだつねおき)、池田輝政(いけだてるまさ)の池田氏とは異なる池田家だとされる。

 荒木村重は、織田信長の信頼も得て、織田信長の最愛の側室であった生駒吉乃(吉野)と先夫(戦死した夫・土田弥平次)の子を荒木村重の妻にさせたと言う。
 生駒吉乃(生駒家宗の長女)も美女として知られるので、この土田弥平次と生駒吉乃の子が荒木ダシだとも考えられている。
 「大坂にて川なう左衛門尉と申者むすめ」とも左京亮宗継入道隆佐記に記述があり、本願寺顕如を実務的な立場から支えた一族である川那部氏の娘とも考えられるが、詳しい事は不明だ。

 荒木村重が織田信長に謀反を起こし、黒田官兵衛が有岡城の牢獄に入れられた際、荒木ダシも気にかけていたようだ。
 荒木村重は単身で有岡城を脱出して尼崎城へ逃亡し、次いで花隈城に移り奮戦するが既に劣勢は動かず最後は毛利氏に亡命した。
 有岡城が落城した際には、残された荒木ダシや荒木村重一族と重臣家族への織田信長の処置は過酷だった

 1579年12月13日、重臣の妻子122名は、尼崎の七松という所へ連れていかれ、全員が磔にかけられ、鉄砲や長刀で処刑された。
 下級の武士とその妻子約510名は、4軒の家屋に押し込められ、矢部家定検使のもと、生きたまま焼き殺された。

 荒木一族としては、12月16日、荒木村重の15歳と13歳の娘、村重の20歳の弟、17歳の妹などの荒木一族16人に加え、子供8人が、まずは大八車に縛り付けられ京都市中を引き回された。

 一番 吹田村氏(荒木村重の弟、20歳位)、野村丹後の妻(荒木村重の妹、17歳)
 二番 隼人女房(荒木村重の娘、懐妊中)、荒木だし(荒木村重の妻、21歳)
 三番 だご(荒木村重の娘で隼人女房の妹、13歳)、吹田女房(吹田因幡の娘、16歳)
 四番 渡辺四郎(荒木志摩守の甥で、渡辺勘大夫の娘に縁組して養子に入った、21歳)、荒木新丞(渡辺四郎の弟、19歳)
 五番 伊丹安大夫の妻(伊丹源内宗祭の娘、31歳)と、子(8歳)、北河原与作の妻(瓦林越後の娘、17歳)
 六番 荒木与兵衛の妻(村田因幡の娘、18歳)、池田和泉の妻(28歳)
 七番 荒木越中の妻(荒木だしの妹、13歳)、牧左兵衛の妻(荒木だしの妹、15歳)
 八番 伯々部左兵衛(50歳位)、自念(荒木久左衛門の息子、14歳)
 この他にも車三両に子供7~8人ずつが乗せられ、洛中を上京一条辻から室町通りまでを引かれてゆき、刑場の六条河原に着き、斬首された。

 荒木ダシは当時21歳とされるが、享年24歳説もある。

 「残しをく そのみどり子の心こそ おもひやられて かなしかりけり」と言う辞世の句は、荒木ダシのものとさせる。
 「みがくべき心の月の曇らねば、ひかりととものににしへこそ行け」と言う辞世の句は、信長公記に見えるが、他にもたくさん辞世の句がある。

 処刑の折、彼女達は白い経帷子の上にあでやかな小袖を着て、身分のある女性として着飾っていたと「信長公記」には記されており、護送車から降ろされた後、帯を締め直し、髪を高く結い直し、小袖の襟を開いて、従容と首を差し出したもある。
  
 織田信長が本能寺の変で横死すると、荒木村重は堺に戻り居住。
 豊臣秀吉は、荒木村重の過去の過ちを許し、荒木村重は大坂で茶人・荒木道薫として復帰。千利休らと親交をもって利休七哲のひとりに数えられ茶人として生涯を終えている。

 荒木村重の子とされる岩佐又兵衛は、乳母の助けもあって、有岡城から逃れる事ができ、江戸時代には代表作「洛中洛外図屏風」を描くなどした絵師として活躍したが、母方の「岩佐」を名乗ったとする。実際、荒木村重には側室が1人いたので、岩佐又兵衛が荒木ダシの子であるかどうか? は、よくわからない。
 また、上記のとおり、荒木ダシは、荒木村重の最初の正室ではなく側室や継室(後添えの正室)だった可能性はある。

 → 荒木村重の詳細はこちら

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