5分でわかる川中島の戦い~永禄4年川中島合戦(第4次川中島の戦い)

妻女山~雨の宮の渡し

武田信玄VS上杉謙信が直接対決した最大の激戦、第4次川中島合戦(第4次川中島の戦い)。
1561年(永禄4年)旧暦9月10日、現在の暦で10月21日頃。

上杉謙信軍1万3千は、川中島と武田の拠点海津城を一望できる妻女山一帯に布陣する。
武田信玄軍2万は茶臼山布陣をへて海津城に入り、にらみ合いに入る。

川中島の戦い

▼仕掛けたのは武田側。9/9夜半、武田別働隊1万2千が妻女山を攻撃に出発。
同時に、武田信玄の本隊8千が川中島の八幡原に展開して、敗走するはずの上杉軍を待ち受けた。

▼上杉謙信はこの動きを察し、武田別働隊到着前に全軍で妻女山を降り、雨の宮の渡しから千曲川を渡った。
甘糟景継隊1千を千曲川畔の防衛ラインに配置して、早朝濃霧の中、上杉謙信以下全軍が、八幡原の武田本隊の前面に展開して霧の晴れるのを待った。


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川中島合戦と海津城

▼永禄4年9月9日夕刻、妻女山上の本営から眼下にながめる海津城からは、さかんに炊さんの煙が上がっていた。
携行食をまとめて作るのは、陣地を離れて大軍が移動する前兆だ。
上杉謙信ほどの天才がこれを見逃すはずもない。

▼9月9日、膠着したにらみ合いを破ったのは武田軍だった。
山本勘助の進言によって、軍を二手に分けた。
深夜、高坂昌信・馬場春信らが率いる1万2千の別働隊が、夜陰に紛れて接近し、妻女山の上杉軍を奇襲すべく城を南へ粛々と進発する。

川中島の戦い

▼少しの時をおいて、武田信玄直卒の8千の武田精鋭の本隊が、西へ千曲川を渡り、八幡社のある原に布陣すべく静かに出て行った。
8千を鶴翼の陣形に南に開いて展開し、夜明けの霧の晴れるのを待った。
奇襲を受けて、あわてて妻女山を逃げ降りる上杉軍をここで包囲殲滅する作戦だった。

川中島の戦い

八幡原古戦場と海津城 

▼川中島に立ちこめた川霧は、日の出とともに徐々に晴れ、上杉軍1万2千が十分に展開を終えた午前8時頃にはクリアな視界になった。
奇襲に慌てふためいて、妻女山からちりぢりに八幡原に逃げ出してくるはずの上杉の大軍がいま整然と目の前で攻撃態勢をとっているのを目の当たりにして、武田信玄本隊の将兵は仰天したことだろう。
8千の劣勢に薄い鶴翼の陣を取らせている。包囲殲滅のつもりだったのだ。

川中島の戦い

▼しかし、立場は逆転している。
上杉軍1万2千は「車懸かり」の陣形で、武田本隊に襲いかかる。
頼山陽の「暁に見る 千兵の大牙を擁するを・・」の場面だ。
妻女山に向かってた高坂昌信らの1万2千の別働隊は、まだ戦場の外にある。

▼武田信玄は守備防御堅守を決意し、友軍が駆けつけるまで持ちこたえることに全力をそそいだ。
猛烈な上杉勢の攻撃に耐えかねて、武田本隊は崩れかかり、諸角豊後守や軍師・山本勘助、武田信玄の弟・副将・武田信繁(武田典厩信繁)までが討たれた。
午前10時頃、敵本陣前の防備が弱くなった瞬間をみすまし、上杉謙信は旗本を引き連れて、武田信玄本陣に突入、単騎・武田信玄その人に斬りつけた。
「遺恨なり 十年一剣を磨き 流星光底 長蛇を逸す」
すでに白兵戦となり、三太刀斬りつけても致命傷を負わせず、武田家臣に追い立てられて、戦場を離脱する謙信の無念いかばかりか。

川中島の戦い

▼正午。妻女山奇襲不発で遅れをとった武田軍別働隊が八幡原に到着すると、形勢は逆転した。
今度は追われるように上杉軍は善光寺までバラバラに逃げ、ここに大合戦は終わりを迎えた。
両軍3万3千人のうち7千人以上が死亡。
負傷者1万人をこえる、戦国でもまれな大激戦だった。

(寄稿)柳生聡
(下記写真類)高田哲哉

ここから下部はおまけですので、引き続きご覧頂きますと、5分以上は掛かりますので、ご容赦願います。

八幡原史跡公園

川中島の戦いの観光名所となっているのが、長野IC近くの八幡原史跡公園となる。

八幡原史跡公園

川中島の戦いでの激戦となった地に、古くからの八幡社が静かにあった。

川中島・八幡社

現在は、八幡原史跡公園となっている。

川中島・八幡社

この八幡社の境内には、武田信玄・上杉謙信両雄一騎討ちの像、三太刀七太刀之跡の碑、両軍戦死者の首塚などがある。
下記は武田信玄・上杉謙信両雄一騎討ちの像。

武田信玄・上杉謙信両雄一騎討ちの像

下記は首塚。

川中島合戦の首塚

下記は三太刀七太刀之跡の碑となる。

三太刀七太刀之跡の碑

下記は執念石。
急いで武田信玄の本陣に駆けつけた、原虎胤(原大隅守虎胤)が、傍らにあった武田信玄の槍にて、馬上にいた上杉謙信を突いたとされる。
しかし、槍先がはずれ、驚いた馬が立ち上がると一目散に走り出したため、上杉謙信を取り逃がした。
その無念に、原大隅が傍らの石を槍で突いたと伝わるのが、この執念の石となる。

川中島・執念石

八幡原史跡公園には広い無料駐車場も完備されており、バスも止められるのでツアー客も良く立ち寄る場所となっている。
駐車場はいくつかあるが、下記のポイント地点が一番便利な駐車場となる。

諸角豊後守の墓

川中島のある武田家の重臣・諸角豊後守の墓をお参りした。

諸角豊後守の墓

上記の八幡原史跡公園、武田信繁の典厩寺や、山本勘助の墓からはだいぶ離れた所にある。

諸角豊後守の墓

諸角豊後守の墓がある場所は、下記の地図ポイント地点。

他にも付近には、軍師・山本勘助の墓武田信繁の墓がある典厩寺海津城(松代城)もあるので、時間が許せばセットでご訪問頂きたい。

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