織田信成さんまでの織田家の系図・歴代織田家当主とは


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 元フィギュアスケート選手で、現在はプロスケーター・スポーツ解説者・TVタレント・指導者・コーチなどで大活躍中の織田信成さんと、織田信長の関連性について、念入りに時間を掛けて調べてみました結果をまとめます。

 織田信成さんは織田信長から数えて17代目の末裔、旗本高家・織田信高の系統(もしくは織田信雄の子孫)にあたると自称なさっております。
 もちろん、本人が調べたと言う訳では無く、祖父母やご家族・ご親戚からの話も含めて総合的に判断した上でのお話かと存じます。
 私自身を含めまして、ご先祖様の事は分からない事が多いですので、その信憑性を問いただすと言う訳ではなく、実際には織田信長からどの系統に当たるのかな?と興味を抱き、大変失礼ながら調べさせて頂きました。
 下記の内容は織田信成さんなどのご主張からの検証内容ですので、下記が必ず正しいと言う事ではありません。
 間違っている可能性もありますし、正しいかも知れませんが、当方はそれを判断する立場ではないことをご理解のうえ、ご参照賜りますと幸いです。

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織田信高とは

 まず、戦国武将・織田信長の7男が、織田信高(おだのぶたか)となります。
 この織田信高は1576年生まれで、母親は高畑源十郎の娘・お鍋の方(興雲院)とされますが、異説もあります。
 お鍋の方は最初、六角義賢(六角承禎)の家臣である近江の高野城主・小倉実房に嫁いだようで、この間に小倉甚五郎・小倉松寿をもうけたようですが、小倉実房は織田家に協力したため、六角義賢(六角承禎)に攻められて討死しました。
 その後、お鍋の方は織田信長の側室となり、織田信長との間に織田信高、織田信吉、於振(水野忠胤・佐治一成の正室)をもうけ、既にいた子の小倉甚五郎・小倉松寿兄弟も織田家に仕えたとされます。

 1582年に明智光秀による本能寺の変で、織田信長・織田信忠が横死すると、織田信高は、織田信孝の家臣・氏家行広(その後、豊臣秀吉に臣従しているため、正確な時期は不明)に預けられて養育を受けたようです。
 この氏家行広は1583年に、美濃国三塚で1万5000石の大名となっていますので、この頃の事だと推測します。

 その後、織田信高は1585年に兄・織田信秀が羽柴姓を与えられた際に、仲介によって豊臣秀吉に出仕しました。官位は従五位下・左衛門佐。
 ちなみに、真田信繁(真田幸村)も、左衛門佐(さえもんのすけ)ですので、官位は同じと言って良いでしょう。
 しかし、真田幸村は1594年に官位を与えられていますので、織田信高の方が官位は先輩と言えます。

 織田信高の正室は佐々成政の娘・光秀院です。

 1591年には、黄母衣衆として近江・神崎郡山上内に1060石となっています。
 この黄母衣衆(きほろしゅう)と言うのは豊臣秀吉の側で常に警護する親衛隊のようなもので、腕がたつ武者が抜擢されましたので、織田信高も武芸に秀でた人物だったのかも知れません。
 その後、羽柴姓を許されて羽柴藤十郎と称し、小田原攻め、朝鮮の役を経て1595年には粟野秀用の旧領1000石が加増されて合計2060石となりました。

 1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成に協力して弟・織田信吉・織田信貞らとともに西軍に属したようで、所領を失ったと考えられます。
 その後、1603年12月12日に死去。28歳の若さでした。
 墓は京都の大徳寺総見院。

 一方、母・お鍋の方は関ヶ原の戦い後に化粧料を取り上げられました。
 ただし、織田信長に寵愛された側室の1人として、淀殿から50石の知行を与えられ、晩年は京都で過ごしました。
 まぁ、50石ですので、最低限の生活ができる保護を受けたと言って良いでしょうか?
 1612年6月25日に死去し、墓は同じく大徳寺総見院となります。

織田高重

 織田信高の子・織田高重(おだたかしげ)は、1602年生まれで、元服したと考えられる1616年1月に駿府城にて徳川家康に拝謁し、従五位下美作守となり、徳川家の旗本となりました。
 正室は能勢頼次の娘。

 徳川家康は大勢の拝謁者の中から、木瓜の家紋(織田家の家紋)をつけた者がいるのを見つけて話を聞き、織田信長の孫という説明を受けて官位を与えたと言う逸話があります。
 こうして、織田高重は2000石として旗本寄合となり、1617年5月26日には、近江国愛知郡から神崎郡に領地替え。
 そして、寛永12年(1635年)には宇治橋の新造奉行を務めています。
 その後、1661年3月24日に死去、享年60。
 墓地は同じく大徳寺総見院と東海寺清光院にあります。

織田一之

 織田高重の子・織田一之は1636年生まれで、1661年12月10日に家督相続が許されて、父と同じく旗本寄合となりました。
 正室は織田信雄の5男・織田高長の5女でしたが、のち離婚しています。
 織田一之(おだかずゆき)は、1687年7月10日に隠居し、家督を嫡男・織田信門に家督を譲ると、1695年6月12日に死去。享年60。
 墓地は深川の要津寺です。

織田信門

 1662年の生まれの織田信門(おだのぶかど)は、父・織田一之が隠居した際に、弟・織田高元が500石となり、残りの近江神崎郡内1514石余りを相続していました。
 その後、1688年11月25日に高家旗本に取り立てられ、信高流高家織田家として1689年1月11日に高家職に就任しました。
 織田信門は従五位下侍従・美作守に叙任し、後に従四位上に昇進。
 正室は上杉長貞の次女。
 徳川幕府は、有名な戦国大名の子孫を高家(こうけ)として取り立てており、江戸幕府における儀式や典礼を任せており、また高家職は朝廷への使者として天皇に拝謁する機会もあったので、官位も高かったのですね。
 以後、織田家は幕末まで旗本高家として仕えています。

 例えば「忠臣蔵」(赤穂浪士)で知られる吉良上野介(吉良義央)も、高家で4200石でした。

 なお、織田信門は安土城跡にある総見寺に、永楽銭が彫刻された織田信長愛用とされる譚を奉納しており、現在、重要文化財に指定されています。
 1706年9月には高家肝煎となりました。
 この高家肝煎とは、礼儀作法に精通した3家を称したものです。
 1710年12月1日、安房朝夷郡500石の加増を受け、1716年6月1日に死去。享年55。

 なお、嫡男・織田信有は早くに亡くなったようで、旗本・能勢頼寛の3男を養子に迎えて、家督を継がせたようです。
 

織田信倉

 第5代となる織田信倉(おだのぶくら、能勢頼寛の3男)は、1696年生まれで、3代前の織田高重の正室が能勢家の娘であった縁から、織田家の養子になったと考えられます。
 正室は久世広隆の長女だとされますので、織田家の娘と結婚した訳ではなさそうです。
 1716年10月20日に家督相続が許されて、1728年12月15日に高家職に就任して従五位下侍従・淡路守に叙任。のち、従四位上左少将・能登守に昇進し2700石。
 1739年4月22日には高家肝煎となり、1752年10月9日に死去しました。享年57。

織田信直

 さて、5代・織田信倉も嫡子に恵まれなかったようで、織田信包の子孫である旗本・織田信義の次男・織田信直(1732年生まれ)を養子に迎えて、1572年12月26日に家督が相続されました。
 正室は蒔田広尊の長女。
 1784年7月12日高家職、従五位下侍従・能登守に叙任され、1795年9月26日に死去。享年64。
 嫡男に織田信賢がいましたが、既に亡くなっていたのか、次男・織田長孺が家督を継ぎました。

織田長孺

 織田長孺(おだながつぐ)は1769年生まれで、1795年12月3日に家督相続が許されています。
 正室は南部信依の娘。
 しかし、高家職に就くことはなく、非役の高家、俗にいう「表高家衆」となったようです。
 これは、高家も子孫が増え、数が多くなったので、徳川幕府は1780年に、高家は26家と制限していた関係がありそうです。
 1835年12月10日隠居すると、次男・織田長裕に家督を譲り、以後、鷹巌と称しました。
 1837年4月23日死去、享年69。

織田長裕

 織田長裕(おだながひろ)の生没年は不詳です。
 1835年12月10日に家督を相続し、1840年7月20日、高家職となり、従五位下侍従・淡路守に叙任されました。
 正室は毛利高標の娘。継室は田村村資の次女・常子ですがのち離婚。
 1854年10月9日、病気を理由に高家職を辞任し、高家末席となります。
 1855年3月26日に隠居し、子の織田信真に家督を譲っています。

織田信真

 第9代・織田信真(おだのぶざね)は、1842年生まれ。
 もう、江戸時代の末期(幕末)ですね。
 2000石で家督を相続したものの高家職に就任することなく、表高家衆となりましたが、表高家内での席次は第1位です。
 1863年1月7日には将軍・徳川家茂に拝謁しましたが、翌年には公武合体で和宮が降嫁すると言う激動の時代であり、1867年には徳川慶喜が大政奉還しました。
 明治新政府からは1868年7月9日に本領安堵を受け、のち10月14日、太政官より「旧旗下織田織之助本領安堵ノ儀」が大津県へ下達されています。
 しかし、廃藩置県などに伴い、家禄を失うと「写真屋」として生計を立てたようで、明治5年(1872年)10月には、江戸の薬種問屋・杉浦六三郎(後の杉浦六右衛門)の肖像写真を撮影しています。
 この杉浦六右衛門はコニカの創業者でして、写真を撮影した翌年には、フランス人技師を雇って写真器材の販売(コニカ)を起業していますので、織田氏がそのキッカケを与えた可能性があります。
 ちなみに、杉浦六三郎は別名を小西六右衛門と言い、小西六がコニカと言う名前に変貌しました。

 さて、織田信真の没年は不詳で、その後、第10代から13代も不詳となります。
 14代が織田重治さん(1917年生まれ)、15代が織田信義さん、そしてその次男が・織田信成さんとなる系図です。
 ちなみに、織田信成さんの甥となる織田信義さんも、フィギュアの選手として将来有望視されています。 

 以上で見る限り、織田信真さんの明治維新までは織田信長より続いたご家系だと言う事が概ねハッキリと分かりました。
 途中、養子を迎えておりますが、たいていの武家は養子を迎えて、家を存続させることを優先していますので、多分に漏れず、特に珍しい訳ではありません。
 しかし、明治から昭和初期?まで、良く分からないと言う事は、もしかしたら、かなりご苦労があったのかも知れません。
 そのためか、第10代~13代の間の期間が推定で約50年くらいと短く、その辺り疑ってしまう方もいる原因にもなっているのかと存じます。
 信憑性に関しては、ご覧頂きました皆様のご判断にお任せする次第です。

 以上、大変失礼ながら、織田信成さんがご主張なさっておられるご家系を調べてみたまとめでした。
 閲覧、ありがとうございました。

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コメント

    • mei
    • 2015年 8月 07日

    私の友人が織田家の当主です。
    織田家の直系は2派あって、その集いでも、
    スケートの織田信成って何?
    と不思議がられているそうです。、
    末裔の方々は品性高く、あえて反論に出られることは
    ないでしょうけれど、
    こういうもっともらしい資料はお控えになられたほうが
    よろしいかと存じます。

    • 高田哲也
    • 2015年 8月 08日

     meiさま、大変貴重なご意見を賜りまして、うれしく存じます。
     また、ご指摘を賜りまして恐縮でございます。
     織田信成さん側のご主張に基づき調べました結果でございまして、そのご主張が正しいと擁護するものでもなくも、これを持って正当な系統の皆様を否定している訳ではございませんので、ご確認申し上げます。
     実際問題、明治期以降では不明瞭な点があることも明記させて頂いておりますが、残念ながらもっともらしい資料とご指摘賜りました件については、私の不徳と致すところでございます。
     今回のご意見は真摯に受け止めまして、今後に生かして参りたいと存じます。
     ありがとうございました。(^-^)

    • 柴田
    • 2016年 10月 13日

    大変興味深く読ませていただきました。織田信成氏並びに氏の祖父母、ご家族、親戚者らからの取材調査からお調べになったとの事、敬意をもって拝見しました。参考までに教えていただければ幸いですが、他に調査された文献、資料などがありましたらお聞かせください。また、念入りな調査とはどのような調査取材されたのかも興味を持っております。長い歴史を遡る調査に興味を持っています。お気を悪くなさらず、どうかよろしくお願い申し上げます。

    • 高田哲也
    • 2016年 10月 13日

    お問い合わせありがとうございます。
    また、ご高覧賜りまして、深く御礼申し上げます。
    さて、参考文献の件ですが、確か、織田一族のすべて辺りを中心に10案件前後、参考にさせて頂いたと存じますが、何分、だいぶ昔の話ですので、記憶が定かではありません。
    参考一覧は下記になります。
    http://senjp.com/shutten/
    自己紹介欄でも記載させて頂いておりますとおり、原則として参考文献のお問い合わせにはご回答致しておりませんので、この程度の回答となりますこと、お詫び申し上げます。

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