太田資武・太田景資となぞの太田資忠?


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 太田資正の3男・太田資武は15歳で初陣し、手這坂の戦い、府中城攻めなどにて戦功を挙げた。
 父・太田資正の死後に家督を継ぎ、安房守を名乗っている。
 小田氏治が元の居城・小田城を奪回攻撃した際に、梶原景国(梶原政景)と小田城近くの桶口表で防戦した。

 小田原落城後は、徳川家康の子である結城秀康の家臣となった。奥州九戸の一揆討伐にも加わっている。
 結城秀康の越前転封にともない福井に移り、越前松平家の家老となり、1000石を知行した。
 太田安房守と号して大阪夏の陣には越前勢の軍奉行を努め、その戦功で8000石に加増となり、その後1643年に没した。
 太田資武の2男・太田正長は福井藩士であったが、幕府直々の内命を受けて、近江草津に移住。草津宿にて貫目改所、人馬継立所と公の役目を果しながら、いわゆる「かくし目付」として街道の動静をみはる役目も果した言われる。
 その子孫は現在でも草津市で太田酒造という酒造会社を営んでおられる。

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 太田資正の4男・太田景資は1590年、佐竹義宣と父・太田資正が、小田原で豊臣秀吉に拝謁した際、付き添ったようだ。
 1595年に佐竹氏の命で武茂氏に変わって武茂城(那須郡馬頭町)に入るが、佐竹氏の秋田転封の際に武茂城は廃城。
 武茂城が廃城となった後の、太田景資については良くわかっていない。

 なぞの太田資忠?

 新編武蔵風土記稿には、太田資正の4男に太田資忠なる人物がおり、母方の潮田姓を継ぎ1560年頃に寿能城主(大宮市)を築いたとある。
 1560年頃と言うと上杉謙信小田原城攻めをした頃だが、太田資正の4男と言うのは誤りで、太田氏の一族にいた太田資忠なる人物が、潮田常陸介と言う武将の養子となり、潮田資忠(潮田出羽守資忠)と称した言う事が自然か?
 岩槻城を支える支城として役割を持ったが、太田資正が岩槻城を追われた際には、太田氏資の行動に従い北条氏康へ従属したようだ。
 寿能城主の潮田資忠・潮田資勝親子は、1590年の豊臣秀吉小田原城攻撃に際しては太田氏房(北条氏房)に従い小田原城に入っており、寿能城は家臣の北沢宮内、加藤大学、2男の潮田資政に任せていた。
 1590年4月18日の豊臣勢の攻撃により小田原城にて外郭の井細田口の守備に当たったが、潮田資忠・潮田資勝親子はともに討死している。
 寿能城主は浅野長政勢にて攻められ落城。家臣・妻子らは見沼に身を投げたと言われている。2男・潮田資政は脱出に成功し、子孫は古河藩家老となっている。

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