誠仁親王(さねひとしんのう)は、1552年4月23日に正親町天皇の第5皇子として生まれた。
母は内大臣・万里小路秀房の娘で、准三宮・藤原房子(万里小路房子)。
1568年12月、親王宣下され元服した。
妃は勧修寺晴右の娘・勧修寺晴子(新上東門院)で、のちの後陽成天皇が1571年に生まれている。
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織田信長は1573年頃から正親町天皇を疎んじるようになるが、誠仁親王とは親交を深め、織田信長は誠仁親王を通じて、朝廷との関係を優位に保とうとし、二条新御所(二条城の前身)を誠仁親王に献上している。
二条御所では老齢となった正親町天皇に代わって誠仁親王が政務を執ったため「主上」「今上皇帝」と称されている。
1575年には誠仁親王が京にて大規模な蹴鞠大会を主催し、正親町天皇、勧修寺晴豊、織田信長と馬廻り、別所長治、別所重宗、三好康長、武田元明、逸見昌経、粟屋勝久、熊谷直之、山県盛信、内藤重政、白井光胤、塩河長満らが出席している。
1584年1月、誠仁親王は三品に叙せられてた。
明智光秀の本能寺の変の時には、二条御所にいたが織田信忠が移動してきて、明智光秀の軍勢に包囲されてしまう。
この時、織田信忠は誠仁親王に塁が及ばないよう明智光秀と交渉し、誠仁親王は二条御所から退去することができた。
正親町天皇から譲位される間際の1586年7月24日に病没。享年35。院号は陽光院。
子である和仁親王(後陽成天皇)が天皇の猶子として譲位している。
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