香宗我部親泰
香宗我部親泰(こうそかべ ちかやす)は長宗我部国親の3男として1543年に生まれました。
母は不明です。
正室は香宗我部秀通の娘となります。
下記は香宗我部氏の本貫である香宗城跡で、わずかな土塁が残っているだけとなっています。
香宗城の場所は、当方のオリジナルGoogleマップの四国編にてご確認願えますと幸いです。
さて、香宗我部親泰は、実兄・長宗我部元親に従って各地を転戦し、のち阿波・海部城を拠点としました。
1579年には、新開道善の富岡城を奪取しています。
また、外交にも優れていたようで、織田信長との交渉役を務めており、1575年には、織田信長に長宗我部信親の烏帽子親を引き受けてもらっています。
天正8年(1580年)には、安土城にて織田信長と拝謁し、三好康長らとの和睦仲介を求めてもいます。
天正10年(1582年)本能寺の変のあとには、中富川の戦いで十河存保を破りました。
天正11年(1583年)には阿波・木津城を攻略し、長曾我部家の四国統一に尽力したほか、柴田勝家や徳川家康と交渉し、四国統一を有利に進めました。
しかし、豊臣秀吉が台頭し、1585年、四国攻めとなると、香宗我部親泰は阿波・牛岐城で防御固めますが、阿波・木津城が、羽柴秀長・羽柴秀次らに落とされると、土佐に帰りました。
その後、兄・長宗我部元親は降伏し、香宗我部親泰も豊臣家に臣従。
1592年、文禄の役に赴く途中に、嫡男・香宗我部親氏が急死しますが、翌年の1593年、香宗我部親泰も朝鮮に赴く途中、長門にて急死しました。享年51。
家督は次男の香宗我部貞親(こうそかべ-さだちか)が継ぎましたが、このときまだ3歳であり、関ケ原の戦いで長宗我部盛親が石田三成に協力したため、長宗我部家は所領没収となります。
そのため、香宗我部貞親は浪人し、のち唐津城主・寺沢広高に500石で仕えています。
大坂の陣の際には、従兄弟の長宗我部盛親が大阪城に入ったため、香宗我部貞親は中原喜左衛門という変名を使いました。
その後、親戚の春日局の仲介で、川越藩主・堀田正盛に1000石で召抱えられました。
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ちなみに、香宗我部家と長宗我部家の似た家の名前ですが、下記のような理由から「香」と「長」が付けられています。
長宗我部氏の根拠地は土佐・長岡郡の宗我部郷でした。
これに対して近隣の香美郡にある宗我部郷にも、宗我部氏を名乗る一族がいたのです。
そのため、長岡郡の曾我部氏は「長宗我部」と称し、香美郡の宗我部氏は「香宗我部」を名乗るようになった模様です。
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