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第3弾の戦国人物伝。今回は足利義昭を紹介していきたいと思います。
戦国大名ではないじゃない、と思った方も多いでしょう。確かに戦国武将の枠に入るかどうかと言われたら、入らないかもしれません。
しかし。
足利将軍家は、武士の頂点に位置しています。義昭の代では、最早頂点というには程遠い存在になっていましたが。
地方ではまだその権威は生きていましたし、義昭もその権威を利用して室町幕府を再興しようとしていたと思われます。
その権威は織田信長という、武力によって補完されていましたが。
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そもそも「幕府」とはどの様なものなのか、そこを少しお話したいと思います。
まずは「幕府」という言葉からいきましょう。「幕府」は政府という意味ではありません。
将軍の前線基地、それを「幕府」というのです。この言葉は元々中国語で輸入された言葉です。
最初に「幕府」を政府という意味にした男は、源頼朝です。そして頂点が征夷大将軍というのも頼朝からです。
頼朝の話をしていくと、肝心の義昭の話ができなくなってしまうのでこのあたりでやめておきます。
「幕府」は何のために作られたのかといえば、武士の組合的な意味合いが当初は強かったと思います。
ですが時代が下る事にその意味合いは、大名間の調停者になっていきます。
調停者とは随分弱いんじゃないか、と思われた方は徳川幕府の姿が頭にあるからでしょう。
過去3つ「幕府」がありましたが、その中で1番弱かった「幕府」が足利幕府です。
何故なら、守護大名の領土が将軍家より大きかったからです。完全なる統制ミスでした。
仕方のない部分でしたが、是正しようとした義満、義教は暗殺されています。今後書く事もあるかと思うのでお楽しみに。
前置きが長くなってしまいました。足利義昭のエピソードを3つ紹介します。
諸国を流れていた「放浪公方」
そもそも、義昭という人はどの様な境遇の人だったのでしょうか?
室町幕府第12代将軍足利義晴の次男として生まれて、6歳で興福寺一乗院に入っています。
生まれた子を出家させるのは、藤原氏によって始められたことです。藤原氏は寺社の支配も狙っていたので血族を送り込んでいました。
足利氏は、別の意味合いで出家させていました。家に残るのは嫡男のみとして、後継者争いを未然に防いでいたのです。
いざという時に血を絶やさない方法でもあり、嫡男に子もなく亡くなってしまった場合跡を継ぐことになります。
義昭の場合、兄である義輝が松永久秀、三好3人衆に殺されてしまいます。義輝には子がおらず、自然義昭が後継者に近い位置にいました。
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しかし、そうなってしまうと松永久秀、三好3人衆の思惑が思うように進みません。義輝は何故殺されたのかといえば、傀儡に甘んじようとしなかったからです。
思いどうりに動かない将軍は必要なかったのです。なので、義昭の存在は邪魔でした。
命を狙われることになるのです。義輝が殺される前まで、興福寺一乗院門跡として人生を送っていたのに。
ここで義昭にとって幸運な出来事が起こります。兄の義輝の家臣だった細川幽斎が、義昭を救い出したのです。
幽斎が何故義昭を助けたのかといえば、義輝の弟であり次の将軍への正当な後継者でもあったからです。
というよりは、幽斎にとっても生き残るためには義昭を必要としていたのでしょう。
ここから義昭の放浪が始まります。
順にすると、和田惟政(甲賀)⇒六角義賢(近江矢島)⇒朝倉義景(越前一乗谷)へと移っています。保護してくれて、義昭を奉じて上洛してくれる大名を探して。
義昭は各大名に書を送っています。自分を奉じて上洛して欲しいという内容の書です。
戦国の世で、各々が自分の領土を守る、拡げる手一杯な状態で上洛なんてできる状態ではありません。
朝倉義景も同じです。むしろ上洛する気がなかった、と言った方がいいかもしれません。
永禄8年(1565)に義輝が暗殺されてから、上洛して将軍宣下を受けることを目標にしているのに誰も手を貸してくれませんでした。
こうしてる間にも、松永久秀、三好3人衆は義昭にとってはいとこの義栄を将軍にしようとしています。
ここで登場してくるのが織田信長です。
信長は美濃の斎藤氏を倒して尾張・美濃の二カ国を治めることとなりました。
しかし、常識でみれば信長が上洛するのが険しい道のりだと思います。
永禄11年(1568)当時の各大名の領土を見れば、徳川家康とは同盟関係でしたが武田信玄(信濃・甲斐)、朝倉義景(越前)、伊勢、六角承禎(近江)と囲まれて身動きできる状況ではないのです。
そんな中を義昭を奉じて上洛するとは誰も考えていませんでした。この永禄11年2月、いとこの義栄が室町幕府第14代将軍になっています。
義昭にとっては渡りに舟でした。焦っても誰も自分の上洛に手を貸してくれない状況で、信長は上洛してくれる。
義昭の3年に及ぶ放浪生活も、終止符を打ち上洛して室町幕府第15代将軍となります。
織田信長との対立
信長に奉じられて上洛をした義昭は、幕府を立て直そうと地方の大名に御教書を送っています。
将軍として存在していると強調するためでしょう。室町幕府のスタンスとして、各大名に必要とされていないと立場がありませんから。
さて、では信長との関係はどうなっていったのでしょう。
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当初は良好な関係を保っていました。義昭にとっては恩義もありますし、信長の武力を背景に幕府は維持できています。
信長も義昭という征夷大将軍を推戴している以上、その権威が信長にとって重要です。両者ともに補完関係が成立しているのです。
全国的な政権と考えると、この当時幕府以外ありません。細川政元、大内義興、三好長慶、松永久秀とその時々の実力者は、幕府を利用して自己の栄達を図りました。
それが常識だったのです。我々は歴史を知っていますから、義昭を守旧派だと思ってしまいますがそれは違います。
信長が常識を変えたので、それまでの常識が古くなってしまったのです。
では信長との関係はどのようにして悪化していったのでしょうか。
それは上洛後すぐです。
義昭は何故3年も放浪することになったのでしょう?
兄である義輝を松永久秀と三好3人衆に暗殺されたからです。
上洛し、信長はすぐに三好3人衆を攻めます。畿内では勢力を誇っていても、力の差があります。三好3人衆の城は陥落しました。3人衆は逃亡します。
松永久秀は早々に降伏して、大和1国の平定を命じました。
憎い相手です、何故許すのか? 信長には文句を言ったかと思います。
その後、三好3人衆は信長が岐阜へ戻っている最中に義昭を襲ってきました。
細川幽斎、明智光秀らが踏ん張ったおかげで、何とか防ぐことに成功しています。
この急襲があったのは正月5日でした。
岐阜から京まで約135キロあります。信長は急襲されたとの報告を受けると、単騎で京へと飛び出します。
冬の雪深い中をです。そしてなんと10日には京に着いているのです。
駆けつけてから6日後には殿中御掟を義昭へ示しています。
10条からなるこの殿中御掟。信長のロボットとして、これからは行動すればいいというものでした。
ここから義昭と信長の暗闘が始まります。
各大名に書を送り、信長を倒すよう訴えかけていくのです。
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しぶとい生き方
義昭と信長の対立、結局は信長が勝ちました。
5年くらいの関係で、終止符を打ったことになります。その後、義昭はどうなっていったのでしょうか?
武田信玄の死が計算外で、信長に包囲されて義昭は籠城していた槙島城を退去します。
その後毛利氏へ強引に頼って、居座ります。鞆幕府と言われています。
信長に追われて、政治家としてその使命を終えたかに思われましたが、義昭は粘りました。
なんと天正16年(1588)まで征夷大将軍でいるのです。
義昭を追いやった信長は天正10年に本能寺の変に遭い、既に死んでいました。
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信長の領国外では、以前と変わらぬ権威を保っていたからこそ生き延びたのだと思われます。
羽柴秀吉から、猶子にしてもらえないかと言われて断ってもいます。プライドが許さなかったのでしょう。
生を全う出来たのは、義昭の粘りがあってこそだと思います
読んで下さりありがとうございました。
(参考文献)
「戦国大名」失敗の研究 瀧澤中著
逆説の日本史9 10 井沢元彦著
信長の謎<徹底検証> 加来耕三著
(寄稿:優秀者称号官位・従六位下)和泉守@nao
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