小笠原成助(おがさわら-なりすけ)は、阿波小笠原氏の第12代当主です。
一宮城主であることから「一宮成助」(いちのみや-なりすけ)とも呼ばれます。
正室は、三好長慶の妹、野口冬長の娘です。
阿波で三好氏が台頭すると、12代・一宮成祐の時には、三好家の中でも重要な家臣となっていました。
1562年には、三好実休が討死した、久米田の戦いにも参陣しています。
しかし、小笠原成助(一宮成祐)は統率力も優れた武将だったようで、敗戦の中、見事に撤退を成功させています。
三好長慶の死後、三好長治が阿波を治めると、三好家の重鎮・篠原長房が、上桜城の戦いで討ち取られ、三好家の家臣も分裂するようになります。
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天正5年(1577年)3月、三好長治は細川真之を討伐しようと、荒田野の戦いとなりました。
このときも細川真之に味方した伊沢頼俊、一宮成祐らが兵を挙げ、三好長治の背後を脅かしています。
そして、三好勢が勝瑞城に退却する途中、今切城に入城した三好勢を2000らて包囲し、3日間の戦闘のすえ、今切城から脱出した三好長治を追いつめ、1577年3月18日の朝に自害へと追い込みました。
この報を聞いた三好長治の家臣・矢野国村は、勝瑞城で計略をめぐらし、4月に伊沢頼俊の陣に攻めかけて滅ぼしています。
そのため、一宮成祐は孤立状態となり、香宗我部親泰の仲介を受けて長宗我部元親と誼を通じました。
そして、春頃に長宗我部元親は阿波に侵攻し大西城を攻略しています。
勢いに乗った一宮成祐は、9月に勝瑞城へ進軍しますが、宮城梅雪の進言を受けて一宮城に帰城しました。
その最中、淡路勢が襲撃していますが、一宮成祐は撃退しています。
篠原自遁はこの状況を打開するため、紀伊・淡路の援軍を受けて、合計7000にて一宮城を攻撃しました。
大軍が押し寄せてきたため一宮成祐は、一宮城から撤退して、焼山寺に引き籠っています。
天正6年(1578年)1月、十河存保が勝瑞城の城主となりましたが、1579年12月、脇城近くにて十河存保は敗退したため、一宮成祐は一宮城に復帰しました。
天正8年(1580年)1月、一宮成祐は十河存保を忙殺しようと試みましたが、事前に察知した十河存保は十河城へと逃れます。
そのため、一宮成祐は勝瑞城に入り、勝瑞城主となりました。
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しかし、天正9年(1581年)7月、織田信長の命で十河存保は、長宗我部元親方の西庄城を攻め落として、勝瑞城も奪還します。
そして、一宮城も攻めましたが、一宮成祐が防ぎました。
1581年9月、長宗我部元親の使者が十河存保に対して2万の大軍にて蹴散らすぞと脅すと、十河存保は一宮城の囲みを解いて退却しています。
1582年5月、三好康長は高屋城の戦いにて、織田信長に帰服して、織田家の四国攻めの先駆けとなって、阿波に入ると十河存保と共に、一宮城と夷山城を攻略しました。
ところが、6月2日、明智光秀の謀反による「本能寺の変」となり、三好康長は急ぎ四国を離れました。
好機ととらえた長宗我部元親は2万3000にて、阿波に侵攻すると、中富川の戦いで十河存保を破って阿波を平定し、四国統一を果たします。
一宮成祐は、その中富川の戦いにて、先鋒として活躍しましたが、長宗我部元親のもとに三好康長と一宮成祐が通じていると知らせが届きます。
11月7日、恩賞の打ち合わせに向かった一宮成祐は、夷山城に招かれました。
夷山城に向かう途中、長宗我部元親の家臣・畑弥助の一宮成祐らを襲撃します。
一宮成祐はなんとか逃れましたが、次第に追い詰められて、切腹して果てました。
長宗我部元親は、後の憂いを無くすため新開道善、細川真之など阿波に招き入れた武将を、ことごとく殺害していってます。
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小笠原長門守成助(一宮成祐)は、謀殺された無念から、死後亡霊となって現れたという伝説があります。
なお、弟・小笠原成孝(小笠原光孝とも?)は、兄が謀殺されたると讃岐へ逃亡しました。
その子である、小笠原光信の代になると、蜂須賀家政に仕え、一宮神社の神職として続いています。
・阿波・一宮城~阿波統治のカギとなった大規模な山城
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