長宗我部元親 ~四国の覇王、栄光と挫折~【戦国人物伝7】

長宗我部元親

秦の始皇帝の末裔。そう聞くと、何かワクワクするものがありますよね。
今回紹介する長宗我部元親は、秦の始皇帝の末裔と言われています。実際にはわかっていませんが、伝承によるとそう伝えられているのです。
正式な名乗りは、長宗我部宮内少輔秦元親と名乗っています。秦の始皇帝の末裔、秦氏。ロマンを感じます。

さて元親ですが、父は長宗我部国親、母は斎藤利良の娘です。斎藤利良は、美濃の守護代だった人で美濃守護土岐政房に守護代を罷免されて土佐一条氏に身を寄せていました。
長宗我部氏は、1時存亡の危機に貧していました。それは元親の祖父、兼序の代でピークを迎えます。
応仁の乱から戦国時代が幕を開けた、とよく言われていますが自分の目からは足利6代将軍義教の暗殺事件、嘉吉の変から少しずつ始まったものと捉えています。
義教は「万人恐怖」と恐れられた将軍で、この頃が室町幕府のピークであり義教弑逆後は下降線を辿っていきます。
戦国時代と言われる時代も、それと同時に風潮として芽生え始めた下克上というのも応仁の乱以降は一気に広まっていったと考えているのです。
話を戻して兼序の時に何が起きたのかを見ていきましょう。
長宗我部兼序は長宗我部氏19代当主です。
元親にとって祖父となります。


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長宗我部氏はこの頃、戦乱を免れて京より土佐に来ていた一条氏に接近していました。一条氏は五摂家の1家です。
権力者に寄り添って、自己の勢力拡大を図る。または手出し出来ない環境を作る。常套手段です。
しかし、この方法は周りからは妬まれる危険性が大きくあります。それは当然でしょう、他の氏族も皆栄達を望んでいるのですから。
長宗我部氏は、他の土佐7雄に敵視されます。
そして遂にことは起きてしまうのです。土佐7雄の1人、本山茂宗を中心とする連合軍によって居城の岡豊城を攻められて、長宗我部氏は領地を全て失います。
兼序はこの際に討ち死にしてしまいます。永正5年(1508)のことです。この時に千雄丸、後の国親は逃れて一条房家の元へ身を寄せることになりました。

国親は父兼序の仇をすぐにでも討ちたかったでしょう。ですが、領地を失い今や房家を頼って行くしか道はありません。
忍耐の日々を送ります。国親が13歳になった時、房家が動きます。本山氏、吉良氏などの国衆へ呼びかけます。
『長宗我部兼序に問題があったのなら、なぜ自分に言わず勝手に領地を分けたのか。国司である自分に話せばよかっただろう。もうあれから10年くらいになる。
兼序の嫡男に領地を返してやれ』
この理屈を言われたら、返すしかありません。中央に力を有する房家に逆らっては、自分たちが危ない。
国親はこの時元服しています。遂に長宗我部の領地を取り戻すことができたのです。感無量だったでしょう。
永正15年(1518)のことです。

岡豊城に入りまずは城の修繕を始め、ここからどうしていくべきかを思案していくのです。
『領地を取り戻すことは出来たが、仇討ちを成すには』
最大の目標は本山茂宗を討つことです。しかし、領地を取り戻したばかりの現状では叶うはずもありません。
土佐には、7雄と呼ばれている国衆がいるのです。

津野氏 5000貫
本山氏 5000貫
安芸氏 5000貫
吉良氏 5000貫
平氏 4000貫
香宗我部氏 4000貫
長宗我部氏 3000貫

長宗我部氏はこうして見ると、もっとも小勢力なのがわかります。
だからこそ一条氏に接近したのであり、それを面白くない他の7雄が叩いたということだと考えられます。
ではどうしたら仇討ちができるでしょう?家臣たちも生活のために他家に仕えてしまった者も多く、兵力は限られています。
長宗我部氏といえば、元親の代で代名詞となる一領具足を編み出したのは国親でした。
兵力に限りがあるなら、見所ある農民を武士にして兵力の補強を図る。柔軟な考えがないと思いつきません。
しかしそれでもすぐに動けなかったのが現状としてあります。


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周りの国衆は横の連帯で繋がっています。長宗我部は孤立しているのです。
協力してくれる者を国親は探し、叔父である吉田周孝を頼ります。長宗我部氏が本山連合に攻められた際、協力を申し入れてきた人物です。
この周孝は策士であり、国親に助言をしていきます。時期を待つように。助言を聞きつつ、国親は勢力を拡大していきます。

国親は大永2年(1522)に前述のように、斎藤利良の娘と結婚しています。そうして、元親も生まれてくるのです。
勢力を拡大しつつ、元親の代を迎えていくことになります。

では、元親のエピソードを3つ紹介していきます。

以上のエピソードに沿って書いていきます。

姫若子と呼ばれた元親

姫若子と聞いて、皆さんはどの様な印象を持たれるでしょうか?
若い男だが姫のようにか弱そうなやつ、イメージ的にはそのようなものでしょう。
元親は姫若子と呼ばれていました。なぜそう呼ばれていたんでしょうか?
元親は背が高く色白、性質は柔和、無口であり人とはあまり会わない。いつも屋敷の奥にいる。だからこそ色白だった。
この面だけをとって姫若子と呼ばれたとのことですが、柔和という面をまず考えてみましょう。
柔和な人とは、性格的に優しく穏やかな人です。誰にでも優しく接していたんでしょう。
無口についても、人のことを考えられるというのなら、相手の気持ちを察することができたのではないでしょうか。傷つけまいとすれば、話さないことが1番。
そしてなにより重要なのは、いつも屋敷の奥にいるということです。屋敷の奥で何をしていたのか? ここが重要です。


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ところで元親の初陣の年齢を知っていますか?
なんと22歳です。これは遅い方の部類に入ります。
かと言って初陣した時は、自ら戦闘に加わらなかったというということもないのです。
永禄3年(1560)、長浜戸ノ本の戦いに元親は出陣します。長宗我部氏の宿敵本山氏との戦です。
奇しくもこの永禄3年は、桶狭間の戦いと同年です。土佐国内の雌雄を決する戦いでもあり、何かこの年に運命的なものを感じますね。

さて、この戦いで元親は勇猛な戦ぶりを見せています。兵力は劣勢であり、工夫しなければ勝てなかったと考えられます。
元親は兵20騎を従えて、味方部隊から離れて臨戦態勢を取っていました。少しでも敵の兵力を分散させて、本隊との兵力差を少なくしようと考えたのかもしれません。
初陣でそこまで考えられるでしょうか? 冷静さを見失わず、大局に立って戦を見ていたと思えます。
ここで先ほどの屋敷の奥で何をしていたのか、の疑問が少し解消されます。兵法を独学で学んでいたのでしょう。
人は努力しているところを見せずに結果を見せていけば、超一流と言われます。元親は家臣たちからの評価をここでガラッと変えるのです。
もう誰も姫若子とは言いませんでした。


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本山氏との戦いは、ここからが本番です。ですがここで国親の命は燃え尽きることとなってしまいます。
戦が終わってすぐ病床について亡くなってしまうのです。元親の双肩に仇討の命運が託されたのです。
その様子は次の項で。

悲願の本山氏討ち、土佐を手に入れる

国親は元親への遺言として、

・本山と決して和睦してはならない
・自分への供養は、本山を討つことだけ

というように、必ず本山氏を討てと言い聞かせています。
恨みとはこれほど恐ろしいことなんですね。親の仇ともなれば、尚更そうです。

では本山氏を討つまでにどのような経過をたどったのか見てみましょう。
元親の代になって、本山氏との戦いの前哨戦とも言える秦泉寺氏を攻めています。
初陣では協力してくれていましたが、こちらも代替わりしており折が合わず争うようになっていました。
元親は秦泉寺氏を破ります。


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その後も、本山茂辰(茂宗嫡男)に連携していた大高坂、国澤、久万の各城を落としていったのです。
元親にとって、茂辰は義理の兄です。しかし、それは戦略的な意味合いがあり、油断させたからこそ今の状況に持ち込めたのです。
永禄5年(1562)、元親は兵力3000で本山氏の居城本山城、朝倉城を攻めています。
ここから激しい戦が永年続いて、本山氏を倒すのは永禄11年(1568)のことです。この間に本山茂辰は病死しています。
なんと兼序の討ち死から60年経っていました。恨みは末代まで続いていくんです、怖いことです。
ところが、元親は本山一族を居城の岡豊に引き取っています。殺してはいません。

元親が姫若子と呼ばれていたのは、性格的に優しいからという一面があります。
そして本山氏とは縁戚関係です。元親の姉が嫁いでいました。いくら祖父を殺した家であっても、その当事者は既に亡くなっています。
奇しくも代替わりして、孫の代に両氏はなっています。これ以上血を流す必要はないでしょう。
しかし、国親の遺言には逆らうことになりますよね? これは明らかに和睦なんですから。

兼序や国親がこの対応を知ったなら激怒するかもしれません。しかし、土佐7雄の1、本山氏はここで滅んだのです。
家系を残すのは確かに危険もあります。恨みのせいで何年か経って滅ぼされることは十分にありえるのですから。
もう当事者の代ではなくなった、これで相殺にしよう。元親の決定からは、その意思が伝わってきます。
兼序、国親には墓前でどのように報告したのか。気になるところです。


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さて、土佐国内を見渡すと、残る勢力は本山氏と同程度の勢力を有する安芸氏と一条氏だけです。
本山氏を倒したことで、長宗我部氏に対抗できる勢力は土佐には一条氏くらいでしょう。
一条氏のこの頃の当主は兼定という人です。一条氏との付き合いは、第15代の元親の頃からのことです。今書いているのは第21代の元親ですので、お間違えのないように。
家を滅ぼされて、保護してもらっていた 国親まで5代に渡ってお世話になっています。一条氏と事を構えるには、とても勇気がいることです。

 まずは安芸氏からとなるのは自然な流れでしょう。元親は安芸氏を挑発します。岡豊にて和睦をしようと書状を送ります。
これは失礼な話です。和睦は普通お互いの領地の境で行うもの。相手の居城に足を運べとは、つまり降伏せよということです。
安芸国虎は1戦を覚悟し、使者を追い返しました。

永禄12年(1569)、岡豊から7000の軍勢を率いて元親は出陣します。対する国虎は5000の兵で籠城します。
姫倉、金岡の支城を落とし安芸城へと迫っていきます。敗色濃厚になってきて、寝返る者も出てきます。
兵糧も尽きかけ、一条氏からの援軍もありません。調略として井戸の水に毒を入れたと流していました。
万策尽きた国虎は家臣たちの助命と引き換えに自刃します。

これで残るは一条氏だけとなりました。一条氏の当主、兼定は遊興に明け暮れていました。国親を助けてくれた房家が2代目、兼定は5代目です。
バカ殿だったのです。いくら中央に連なる名家と言っても、見放されてしまいます。特に女狂いはひどかったようです。
土佐平田村にお雪という女性がいました。兼定はその噂を耳にして、鷹狩りを名目に見に行き自分の妾にしてしまいます。
そして家まで建てて通うようになってしまいました。


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家臣たちは諌言しましたが、一向に聞き入れようとしないばかりか諌言した家臣の首を撥ねてしまいました。
もう兼定ではダメだ、家臣たちの総意でクーデターが起きて兼定は幽閉。兼定の子、内政が擁立されたのです。
この状況は、元親にとって濡れ手に粟の状況だったでしょう。この噂を流したのは元親だったのかもしれません。
家臣たちは後見を元親へ頼み、元親はここで土佐1国を手中にします。

ほぼ100年にわたって、土佐の盟主として君臨してきた一条氏。兼定は大友宗麟を頼って土佐中村に再起しようと伊予の法華津氏に支援を要請し、再起しようとします。
ですが簡単に元親に撃ち破られています。自業自得というやつですね。

四国制覇と挫折

ここから元親の四国制覇の道が始まります。まずは阿波から攻めていきました。なぜ阿波だったのか?
元親の弟に島弥九郎親房という人物がいます。この親房を襲撃し、討ち死させたのが阿波の海部氏だったのです。
弟の仇討ち、阿波侵攻の足がかりとして海部氏を攻めます。
天正4年(1576)、岡豊を出陣した元親は海部城を攻め落城させます。
勢いで阿波南部の海部、那賀の2郡を手中にします。勢いに乗っている時ってあっさり勝てるんですよね。

その後阿波の要所、白地城を裏切りに合いながら落とします。阿波・讃岐と次々に勢いに乗じて落としていく元親。
ですがここで最初のピンチが訪れます。歴史上の人物の中で、現在もっとも有名な人物が道を阻んできます。
織田信長です。信長は四国を制覇しそうな元親の存在が、邪魔になってきていました。
では信長と一体どのタイミングで繋がりを持ったのか? 
信長が足利義昭を奉じて上洛したのが、永禄11年(1568)のことです。
いつから交渉を持ったのかは残念ながら不明です。ですが早い段階から交渉を持っていなければ、元親の嫡男信親の「信」を偏諱として名乗らせないでしょう。


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その信長とは「四国は切り取り次第」だとお墨付きをもらっていました。
時の権力者のお墨付きをもらう、長宗我部氏のお家芸とでも言いましょうか。代々中央との繋がりを維持してきていたので、ぬかりはなかったはずでした。
しかし、元親の急な勢力拡大は信長の目にどう写ったのでしょうか。信長としては、元親の力を過小評価していたように思います。
せいぜい阿波くらいまでは手に出来るだろうと。元親は信長の思惑とは裏腹に、勢力を拡大させ四国を制覇する勢いを見せます。
信長の思惑とは違うことから、元親へ要求を突きつけてきます。

当然ながら、元親は拒否します。自分の力で領土を切り開いてきたのです。信長の要求は理不尽なものでした。
家臣になった覚えもなく、同盟を結んでいるに過ぎません。この理不尽な要求、讃岐の三好氏と伊予の河野氏が中心となって訴えた工作も加わっています。
元親の交渉役は、信長方は明智光秀が担当していました。光秀はこの理不尽な決定事項が決まるまで、指を加えて見ていただけなのでしょうか?

この頃、光秀の織田家中での権力は低下傾向にあったと思われます。何故なら、各方面軍の司令官が担当する地方をそれぞれ持っていたのに対して、光秀は遊軍となっていました。

柴田勝家 北陸方面軍
・羽柴秀吉 中国方面軍
滝川一益 関東方面軍

天正10年(1582)までに決まっていた各方面軍は、家中で実力ある宿老がなっていました。
光秀が実力不足という訳ではありません。しかし、年齢的にも60代だったと言われており、現代では高齢者の部類に入ってきます。
焦りもあったと考えられます。光秀は惟任姓と日向守の官位をもらっていまいた。これは、九州方面軍を率いることになるかも知れない可能性を秘めていました。

そこへ自分が交渉窓口として接してきた長宗我部氏への対応の変化を頭越しに決定し、伝えられたのです。
除外された気持ち、焦燥感。明智氏の将来への不安。光秀を駆り立てたのは、信長に仕えてから日々追われ続けた「出世」というものからの脱却だったのだと思います。
長宗我部氏と家臣の斎藤内蔵助利三は縁戚関係にあります。元親と、利三の異父妹が結婚していたのです。
状況が複雑に絡み合って、本能寺の変は起きるのです。


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元親にとっては渡りに船の状況だったでしょう。何しろ四国方面軍が編成されて、出陣直前だったからです。
四国制覇もまだ途中であり、とても対応できなかったでしょう。もし本能寺の変が起きていなかったら、長宗我部氏は滅んでいたかもしれないのです。
ピンチの後にチャンスあり。
元親はここで動くべきでしたが、動きませんでした。

謎の1つですが、これは自分の推測ですのでご了承ください。
元親は光秀からの要請を待ったのではないでしょうか?嫡男の信親は、勝瑞城を攻めることを元親に進言していますが、体調がすぐれないことを理由に待つことを命じます。
ここで出陣しては、光秀からの要請に答えられない。だからこそ待っていたのだというのが自分の推測です。
ですが、光秀は羽柴秀吉と山崎で合戦となり、敗死します。

元親にとって想定外だったでしょう。状況を確認しつつ、やっと動き始めたのは8月のことです。
中央が落ち着く前に何とか四国制覇をというのが、元親の思い描いたシナリオでしょう。そして何とか四国制覇がなった時、羽柴秀吉が中央を制覇し天下を取ろうとしていました。
元親は四国制覇よりまず、秀吉を何とかするべきだったと思います。せっかく四国を制覇しましたが、もはや秀吉と関係を築くには遅すぎていました。
徳川家康と元親による東西からの挟撃を図っていたのも、周知の事実です。


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秀吉は四国征伐軍を天正13年(1585)に四国に向けて出陣させます。淡路・備前・安芸の3方向から攻めます。
兵力10万、勝負ありました。元親は秀吉に降伏、土佐1国に押し込められるのです。

ターニングポイントがいくつかあった中で、元親はいずれもまずい選択をしてしまいました。
どこかで選択を変えていれば、また違った歴史があったかもしれません。ここまでお読みいただいてありがとうございました。

参考文献

長宗我部 長宗我部友親
戦国大名失敗の研究 群雄割拠編 瀧澤中

(寄稿:優秀者称号官位・従六位下)和泉守@nao

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