足利直冬 反逆の貴公子 生涯をかけて足利家に反抗した尊氏の次男

足利直冬

鎌倉時代末期から南北朝時代。利害により敵味方が入れ替わる激動の時代。
そんな時代において本来、肉親は信頼できる味方になり得るはず。
今回紹介するのは、足利尊氏の息子の足利直冬(あしかが-ただふゆ)。
青年に達した時期から父である尊氏、また義理の兄弟である義詮(2代将軍)の
反対勢力として存在することになります。

反対勢力となったのはなぜか?
また、尊氏・義詮に対してどのような反抗勢力であったのか?
直冬の軌跡を辿ってみることにしましょう。


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不遇の生い立ち~尊氏に敵対するようになった主要因~

足利直冬の生年はわかっておらず、没年は1387年とされている。
幼名は新熊野(いまくまの)。
尊氏の次男として生まれ、兄に竹若、弟に義詮、基氏らがいる。
尊氏が鎌倉幕府に反旗を翻した時、鎌倉にいた竹若、直冬は命の危険にさらされる。
1332年、竹若は北条の手にかかり殺害されてしまうが、東勝寺の喝食をしていたとされる直冬は生きながらえた。そのため、実質的な長子と考えられる。

母は越前局。
この母の出自ははっきりしていないが、身分が低かったとされている。
直冬は、越前局と尊氏の一夜の情で生まれたと思われていた。
そのため尊氏は、成人し東勝寺の喝食をやめて上京してきた直冬を
自分の子だと認めなかった。
認めなかったのは、尊氏の正室である赤橋登子が讒言したからとも言われている。

直冬は、父に認められる機会を待ちながら、
玄慧法印(後醍醐天皇に学問を講義していた)の下で学問に励んだ。
玄慧法印から直冬のことを聞いた足利直義(尊氏の弟。兄尊氏に匹敵する権力を持つ)は、この甥の生い立ちを憐れみ、義理の息子とした。
この時「直」の字をもらい「直冬」と名乗るようになる。
その後、直義の尊氏への直訴が実り、晴れて「直冬は子である」と認識されるようになった。しかし、認めたものの尊氏は、本心から直冬に心を許しているわけではなった。


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そのような尊氏の心境を察してか、足利直義はこの後も足利直冬のことを気にかけており、
戦功をあげる機会も提供している。
折しも、紀州の南朝勢力が蜂起したので、直冬を追討軍の大将として派遣をする。

尊氏から足利将軍家の息子として評価される絶好の機会。
直冬はこの初陣で、南朝勢力を鎮圧する働きを見せた。
しかし、尊氏はその功に対して冷ややかな態度をとり、
尊氏の気持ちをおもんばかる家臣団も武功に賛辞を送らない。

初陣の翌年にあたる1394年4月、突如として直冬は中国探題に任命される。
中国地方8ヵ国を管轄する重要な役割であるが、現地(中国地方)に
赴く必要がある。そして、直冬が功を立てたとはいえ、ただの一度。
つまり「直冬を京都から遠ざけたい」という尊氏を中心とした幕府からの
左遷とも受け取れる命令だった。


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このような状況の中で直冬は、父である尊氏や、その取り巻きに対する
憎しみを覚えるにいたる。また同時に、自分の境遇を憐れみ、
父との面会を仲裁、名を与えてくれて、活躍の場まで考えてくれる義父への
愛情を強くしていく。

「尊氏憎し。直義を助けたい」という感情が、
このあとの尊氏×直義の政争の中で、「幕府憎し。直義軍を助ける」
という行動原理となり、結果として生涯幕府と戦い続けることになる。

尊氏勢力との対立(九州での挙兵~京都占領・撤退)

(襲撃)
中国探題への任命から4カ月後の1349年8月、
幕府内で主導権争いが勃発。
直義は失脚し、幕府の政務は甥(尊氏の息子)の義詮に継承された。
ここで尊氏が気になるのは、西国の8ヵ国を管轄する直冬の動向である。
今までの経緯を考えると、直義を擁護する行動をとるであろうと予想されるからだ。
足利尊氏は、側近の「直冬を討つべき」という提案を受け入れて、
討伐の軍を起こすこととなった。


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同年9月、直冬は尊氏の息のかかった杉原又四郎の軍勢に襲撃を受ける。
直冬は、防戦したが衆寡敵せず。船で九州へ逃れることになった。
慕っている直義が失脚、また理由もわからずに襲撃を受けたこの事件が
引き金となり、生涯をかけ尊氏の反対勢力として戦う日々が始まるのである。

(九州での勢力拡大)
家臣の河尻氏の本拠地である熊本に拠点をおいた直冬は、
九州の武士たちに従属することを求めた。
当初は思うように事が運ばなかったが、九州北部を代表する勢力である大宰府
少弐頼尚が直冬を婿として迎えたことにより潮目が変わる。
続々と武士たちが直冬に応じるようになった。
この後、直冬の勢力は九州だけでなく中国地方にも拡大し、
幕府も無視できない一大勢力となる。

太平記』には、中国探題に任命された当時の直冬のことを
「人々が皆従順に直冬に従った」という意味の文書で記録している。
直冬には足利の血と、人を引き付ける魅力があったようである。

(決戦)
同年10月、尊氏・師直を中心とした直冬討伐軍が
西を目指し京都を出発した。
直冬の窮地を察した直義は、京都から脱出。
幕府の中枢にいる時は、敵として対峙していた南朝戦力と手を組み挙兵した。


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西を目指していた尊氏は、手薄な京都を直義と南朝戦力に奪われることを恐れ、
軍を引き返す。そして、義詮と連合して直義軍と戦うが敗北し、直義と和睦。
これにより、直冬の尊氏との親子対決は回避された。
また、今回の和睦で直義は幕府内で権力を回復しており、
自分の政治的基盤を強化する意味もこめて、直冬を九州探題に任命した。

しかし、和睦は長くは続かない。
直義は、南朝、尊氏の双方と決裂してしまうのである(観応の擾乱)。

今度は南朝と手を組んだ尊氏父子が、後村上天皇より
綸旨を得て直義の討伐を開始。
1352年1月、直義軍は連敗し、鎌倉の寺院に幽閉されるが
1カ月後に急死。毒殺されたとも言われている。

直冬が九州探題となって時が経たないうちに、庇護者である直義が死去してしまった。
九州地方へこの情報が流れると、直冬から離反する武将が続出。
大宰府を守ることができなくなったので、中国地方へ拠点を移すこととなった。

一方、全国に存在する直義派は、直義の死により次の盟主を求めていた。
白羽の八を立てたのが直冬。血統、直義との関係性いずれも申し分ない。
まずは、畿内の直義派である石塔氏、吉良氏によって
直冬と南朝の講和が進められ、1352年に成立する。
北陸の直義派である桃井直常、山名時氏、斯波高経らも
直冬を大将と仰ぎ、反幕府勢力が直冬の下に集結することになる。

翌1353年、直冬と南朝の連合軍は京都へ攻め込み、
義詮を京都から駆逐する。
美濃に撤退した義詮は、播磨の赤松則祐と東西から挟撃の作戦を画策。
これを察知した、直冬・南朝の連合軍は不利を悟り京都から撤退する。


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尊氏勢力との対立(南朝勢力の総司令として再び京都へ)

1354年、南朝の忠臣で謀臣でもあり宰相でもある北畠親房が死去する。
直冬はその後を継ぎ、後村上天皇からの綸旨を受け、
親房に代わり指揮をとり尊氏。義詮と戦うことになる。
岩見に拠点を移していた直冬は、伯耆で山名時氏と合流し京都へ向け軍を進めた。

「息子の直冬が敵対勢力と手を組み、そればかりか総司令の立場で戦をしかけてくる」
直冬の京都への進撃が近づくと尊氏は東へ、義詮は西へ撤退。
1355年、桃井勢、斯波勢ら北陸の諸将が尊氏・義詮不在による
軍事的空白の京都に入る。時を経ずに、直冬本軍含む中国勢も入京を果たした。

無血占領の喜びも束の間、大津付近に尊氏、高槻付近に義詮が布陣し、
京都を挟み撃ちする姿勢を見せた。

直冬も尊氏・義詮と直接対峙すべく軍を展開。

東の尊氏に対しては、斯波軍、桃井軍の北陸勢6,000。
西の義詮に対しては、吉良、石塔、楠木の吉野勢3,000。
さらに山名軍を中心とする山陰勢5,000。
直冬自身は東寺を本陣とし、尊氏・義詮に備えた。

いよいよ、父尊氏との戦である。
直冬は、以下のような趣旨の願文を東寺に納めて戦勝祈願をしている。

「敵には将軍である父がいる。戦いを挑むのは心が痛い。
 戦うのは、将軍を取り巻く佞臣を取り除くためです。
 私欲で戦っているのではありません」

決戦を前にしているものの、尊氏への未練が断ち切れない
直冬の気持ちが表れている。


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戦いは、義詮が布陣する西側から始まった。
昼夜問わず戦が展開される中、直冬方の桃井軍の立て籠もる戒光寺が
占拠される。敗色濃厚とみた直冬は、京都市街の南部、八幡方面に撤退を開始する。

八幡には、直冬を慕い数万の軍勢が集結した。
この大軍で尊氏軍に最後の決戦を挑む、という兵達である。
一方、尊氏と直接対決をした後であるにもかからず、まだ未練が断ち切れない直冬。
迷いを断ち切るために合戦継続の吉凶を八幡の神に尋ねた結果、
「親不孝者の供物は受けない」との御宣託が受けてしまう。
これを聞いた諸将が「直冬様の覚悟では尊氏は討てない」と思い
国に兵を引き上げたため、直冬も合戦を継続できず戦場を離れた。

この後、直冬は歴史から姿を消し、1387年まで生きたとされている。

直義を父と慕いながら、尊氏を憎み切れない直冬の葛藤が、
戦に勝ちきれなかった要因のひとつであるように思える。
尊氏も自分をよくしてくれた後醍醐天皇への情を断ち切れず、
兵を向ける際にはノイローゼになったと言われている。
境遇は違うが、尊氏・直冬父子の「非常になり切れない人の好さ」
が共通点として垣間見える。

関連史跡

*「智教寺天下墓」(広島県北部の安芸高田市 美土里町と島根県 邑智郡 邑南町県境)

室町幕府第15代将軍である足利義昭の供養墓とされているが、
足利直冬の墓とも言われている。

*南陽山慈恩寺(島根県 江津市)

晩年の足利直冬が出家隠棲した寺と言われている。
寺伝によれば、直冬はこの寺で1400年まで生きたとされている。


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寺院内には「大檀那 足利直冬公」「慈恩寺殿玉渓道昭居士」の法名が刻まれ
た記念碑がある。供養堂には「足利直冬像」とされる法躰像が安置されている。

(寄稿)渡辺綱

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