お鍋の方(興雲院) 正室の代わりに織田信長の奥向きを取り仕切った側室

お鍋の方

お鍋の方とは

興雲院(きょううんいん)・通称:お鍋の方(おなべのかた)は、織田信長の側室の一人です。
戦国時代の天文14年(1545年)、近江野洲郡の土豪、高畑源十郎の娘として生まれたと言われていますが定かではありません。
安土城に拠点を移した後の織田信長を支え、実質的な御台として奥を差配していました。
斎藤道三の娘の濃姫や、織田信忠織田信雄の母である吉乃ほどの知名度はありませんが、本能寺の変に際しては、織田信長の菩提を弔う対応を取り仕切る実質的な正室の役割を果たしており、豊臣秀吉や淀殿からも丁重な扱いを受けています。
しかし、関ヶ原の戦いに息子の織田信吉が西軍として参加。
化粧領を取り上げられ寂しい晩年を過ごしました。


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織田信長を支えた、実質的な正室のご紹介です。

息子を助けてくれた織田信長の妻となる

お鍋の方は、織田信長の側室になる前に近江の小倉実房(実澄)の山上城へ嫁ぎます。
そして小倉甚五郎、小倉松寿の二人の男子をもうけました。
小倉実房は、南近江に勢力を持つ六角義賢の家臣でしたが、尾張の織田信長と交流も持っていたようです。
永禄2年(1559年)、織田信長は尾張支配の許可を13第将軍・足利義輝から得るために家臣を80名ほど引き連れて上洛します。
道中、当時敵対関係にあった美濃勢に襲撃されることを危険視した織田信長は小倉氏の領地から伊勢を抜け尾張・京都を往復することを計画。
伊勢に抜ける八風街道と千種街道の要衝であった山上城主:小倉実房(お鍋の方の夫)が道案内をしたと言われています。


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また、元亀元年(1570年)に朝倉攻めを行っていた織田信長は浅井長政の同盟反故により窮地にたたされます。
金ヶ崎の戦いを経て、京都へ撤退しますが、近江の浅井長政が敵になったため本拠地の岐阜へどう帰還するかが問題になります。
ここで、再度小倉実房が登場します。
千種越をする織田信長を支援し、無事岐阜に帰還させました。
上記が原因かはっきりわかってはいませんが、織田家に味方していると認識され、小倉家は六角家に攻められます。
小倉実房は討ち死にし、息子二人は六角家に人質として捕らえられてしまいます。
未亡人になってしまったお鍋の方ですが、人質になってしまった小倉甚五郎、小倉松寿を助けるために織田信長に救援を求めます。
織田信長は、小倉実房に窮地の時に支援をしてもらっているので、この要請を受け、小倉甚五郎、小倉松寿を取り戻します。
そればかりでなく、二人とも織田家の家臣とし、お鍋の方は岐阜に住まわせました。
時期ははっきりしていませんが、お鍋の方はこの後に織田信長の側室となります。

織田信長の実質的な正室

お鍋の方は織田信長との間に、織田信吉・織田信高・於振の二男一女をもうけました。
織田信長が岐阜城から安土城に居城を移すときも同行し、安土では正室のいない信長の奥向きを取り仕切るようになります。
天正10年(1582年)6月2日、明智光秀の謀反によって織田信長が横死します(本能寺の変)。
この時、織田家の家臣となっていた前夫との息子、小倉松寿が死亡しています。
織田信長の死を受け、お鍋の方は6月6日に美濃の崇福寺を位牌所とします。


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そして「いかなる者の違乱を許さない」とお鍋が自筆で書状を書き、同寺の住職に命じています。
このように、織田家中の側室の代表として位牌の安置・菩提を弔うという行為をお鍋の方が行っています。
天正2年(1583年)、羽柴秀吉が京都の大徳寺で織田信長の葬儀を執り行い、境内に墓を建てました。
そして、織田信長と織田信忠の位牌は、美濃の崇福寺に納められました。
ここに納められたのは、お鍋の方が羽柴秀吉に願い出てからだと言われています。

また、羽柴秀吉の織田家の継承権争奪戦争の最中に、丹羽長秀長良川(崇福寺の近く)に陣を張ることがありました。これに対してお鍋は

・織田信長様、織田信忠様の忌中
・寺や大門に放火や乱暴狼籍を禁じる制札をかかげてください
・寺内に人が入らぬように取り締まって下さい

という趣旨の書状を送り、織田家の位牌を守っています。

その後

織田政権を継承している羽柴秀吉とお鍋の方の関係は良好でした。
化粧領として近江国神埼郡に500石を与えられ、羽柴秀吉の正室・おねに仕えて孝蔵主、東殿(大谷吉継の母)と共に側近の筆頭でもあったようです。
また、前夫との息子・小倉甚五郎は天正11年(1583年)に加賀・松任城主に任じられたと言わています。


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織田信長との間に生まれた織田信吉、織田信高も領地を与えられました。
しかし豊臣秀吉の死後、関ヶ原の戦いに西軍として織田信吉が参戦。
戦後に改易されたため、お鍋の方の化粧領も没収されてしまいます。
困窮したお鍋の方を救ったのは織田と繋がりのある淀殿とおねでした。
淀殿から50石、おねから30石の知行が与えられ、二人に支えられながら晩年は京都で過ごしています。
慶長17年(1612年)6月25日に亡くなりました。


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墓所は京都の大徳寺塔頭総見院。
織田信長の墓の横に埋葬されました。

(寄稿)渡辺綱

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