真田丸とは~大阪冬の陣~日の本一の武将の意地を掛けた真田丸の戦い

真田丸(さなだまる)とは、真田幸村が築いた大阪城の出城の名称である。

大坂冬の陣に参加して欲しいと、大阪城の豊臣家から要請を受けた真田幸村は、蟄居先の九度山の見張りを上手くかわして、妻子と僅かな家臣らを率いて大阪城に入り、豊臣秀頼淀殿らに拝謁。

過去、父・真田昌幸と共に、徳川家康の徳川勢を上田城にて2度も撃退した武勇は、豊臣勢も知っており、軍議にも参加した。

真田丸の築城

大阪城は亡き豊臣秀吉が天下統一の拠点として、石山本願寺の跡地に難攻不落の巨城を築いた豪華絢爛な「三國無双」の城で、1583年に築城総奉行は黒田官兵衛が担当して、縄張り(設計)した輪郭式平城。
本丸の造営には1年6ヶ月、大阪城全体に至っては、豊臣秀吉が存命した全期間(15年)掛けて常に工事・築城されたと言う。
設計的には、1590年の小田原攻めの際、周囲全長9kmにも及ぶ小田原城の総構え(そうがまえ)を前に、城攻めの強攻ができなかったと言う経験から、築城の名手とうたわれた北条家・小田原城の総構と障子堀を大阪城にも採用した。
その為、大阪城は小田原城の総構えに匹敵する周囲の長さ8kmの規模となる堅城に至っていた。

当時の小田原城の総構えは東京ドーム74倍の大きさを誇っており、この大阪城や小田原城の大きさ(周囲9km)が意味する意図は簡単だ。
それは「大砲の飛距離」に関係する。
戦国時代の大筒で一番良く飛んだものが約600m程度、徳川家がイギリスから購入し大阪夏の陣にて使用したセーカー砲でも最大射程は1000m程度だと推定される。
周囲が9kmある城郭だと、その外周から中心部までの距離は単純計算して約2800m。
すなわち、当時最大の武器とも言える「大砲」から、城の中心部を守るために、堀を何重にも巡らした総構えは、防衛上大変有効であったのだ。

なお、敵が侵入しにくい城の構えと言う者は、逆に例えると味方が逃げにくい。
すなわち、籠城する際の「構え」としては、防御と言うよりは、味方の兵が恐れをなしたり、空腹に耐えかねて逃亡するのを防止すると言う意味合いの方が大きい。

さて、大阪城に入った真田幸村・後藤又兵衛毛利勝永らは城から討って出て積極的に野戦を行い、徳川勢を足止めしている間に諸大名を味方につける策を主張した。
しかし、この鉄壁な大阪城の守りに自信がある淀殿や大野治長らは籠城策を採る。
その為、籠城の準備に入ったが、築城の名手と言えば、真田家も同様であり真田幸村は大阪城防御の弱点は南方だと見抜いていた。
真田幸村(真田信繁)は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築くことを許されると、自ら出城に入って指揮を取る事となった。

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こうしてこの出城は「真田丸」と呼ばれるようになった。
真田幸村には、1600年に父・真田昌幸が指揮した故郷・上田城での、第2次上田城の戦いにおいて、馬出しを利用した戦術にて10倍もの徳川勢を撃退した経験があったのだ。

真田丸の大きさは東西180mほどの半円形の曲輪で、出口は後方と両脇にあった。
そして、三方には堀を巡らし、塀も備えて外側には三重の柵を敷いたと言う。
真田幸村が、手紙を送り大阪城に入った堀田作兵衛や、高梨内記青柳清庵ら父の旧家臣らを中心に、浪人など5000で真田丸を守備した。
ただし、豊臣勢は真田幸村(真田信繁)を100%信用していた訳でもなく、謀反の動きが無いか監視する為に、軍監として伊木遠雄を真田丸に送っている。


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真田丸の戦い

1614年10月2日に、豊臣家は旧恩ある大名や浪人の募集を開始して、武器の買い入れて、総構の修理、更なる造営、櫓の建築なども開始。
真田幸村をはじめ、長宗我部盛親、後藤又兵衛、毛利勝永、明石全登塙直之大谷吉治木村清久など約10万が大阪城に入った。

これに対して徳川勢は約20万の大軍で、大阪城を取り囲んだ。
二条城から発った徳川家康・徳川秀忠茶臼山を本陣として11月18日に到着した。

戦闘は11月19日の木津川口の砦においての木津川口の戦いから始まり、11月26日には鴫野・今福の戦い、11月29日には博労淵の戦い、野田・福島の戦いと激しい戦闘状態となった。
豊臣勢は数ヶ所の砦が陥落したため、11月30日に残りの砦も破棄して、全軍が大坂城に撤退。
そのため、徳川の幕府勢は、大阪城に近寄って完全に包囲。
徳川家康は、攻撃はせずに大軍で包囲する事での心理的圧力にて屈服させようと考えた。

真田丸の正面には前田利常12000の他、南部利直、松倉重政、榊原康勝などが数千、八丁目口・谷町口には井伊直孝4000、松平忠直10000、他数千と26000以上が布陣。
対する真田丸には、真田幸村5000、八丁目口・谷町口に木村重成、後藤又兵衛、長宗我部盛親など12000の合計17000が配置された。
一説によると御宿勘兵衛も真田丸に入っている。

真田丸

12月2日、前田利常は塹壕を掘り土塁を築くようにと命令を受けて、塹壕の構築を開始すると、真田丸の前方にある篠山と呼ばれる丘から、真田勢の鉄砲隊が狙撃して妨害。
前田勢は篠山からの狙撃に悩まされたあげく、それなら篠山を陥落させようと、ついに12月4日未明に行動を起こしてしまう。
前田勢の先鋒・本多政重、山崎長徳らが夜陰に乗じて慎重に篠山に向かうと、真田勢はなんと真田丸に撤退しており、誰もいなかった。
そして、夜が明けるとその真田勢は、そんな前田勢を嘲笑い、さんざんに愚弄したと言う。これも真田幸村の巧みな作戦だ。
前田勢は徳川家康から攻撃するなと言われていたが、その挑発に我慢できず、12月4日の午後2時頃、真田丸への攻撃を開始してしまった。

真田幸村は、前田勢が充分に真田丸の城壁に辿りつくまで引きよせてから、鉄砲で一斉に攻撃開始した。
小幡景憲と言う武田旧家臣で前田勢にいた武将が唯一接近したとも伝わるが、前田勢は大損害を受ける。
この戦法も、父・真田昌幸が上田城で徳川勢相手に取った方法であったが、見事に真田幸村が再現して見せたのだ。
父は名将・真田昌幸と称えられてきたのに対して、その次男で14年も九度山で幽閉生活していた真田幸村は、すでに50歳近くなっていた。
単なる真田家出身の武将と言う真田幸村は、それまで無名と言っても過言では無かったが、この見事な戦い振りでその名が初めて世の中に知れ渡る事となったのである。

一方、前田利常は命令違反の家臣を怒り、すぐに兵を撤収させようとした。
しかし、その前田勢の突進を見た、八丁目口・谷町口の井伊直孝、松平忠直らも、功を焦り攻撃禁止の命を破って大阪城へ攻撃を開始してしまう。

そんな折りに、ちょうど大阪城内で火薬庫が爆発する事故が発生し、その凄まじい大音響と黒煙が大阪城から上がる。
幕府軍はこれを寝返りを約束していた南条元忠の手はずだと勘違いし、ほぼ全線で激しい攻勢に転じた。
当然、守る側が有利であったため、幕府軍は大損害となり、これらの惨状を知った徳川家康は全軍退却を命じている。
しかし、城壁からは鉄砲で狙撃をされていた為、物陰になんとか隠れている徳川勢は撤退にも一苦労したと伝わる。

徳川家康は各将を呼びつけると、軽率な行動を叱責し、以後、城攻めする際には、弾除けとなる竹束・鉄楯を必ず持って行くようにと厳命したと言う。

真田丸のジオラマ模型
※上記写真は真田丸のジオラマ模型。

真田丸は大阪の冬の陣のあと、徳川勢によって徹底的に破却されたため、地形も変わってしまったとされる。
でも、明星高校の周りや、宰相山公園の周りが真田丸の推定地とされている。

真田丸の崖か?

上記は推定される真田丸の崖。
まさのこの崖の上が真田丸であったのであろうと想像がつく。

宰相山公園

上記は宰相山公園の丘で、現在は、戦没者墓地となっている。
東側に隣接して三光神社がある。

真田丸の抜け穴

その三光神社に真田丸の抜け穴がある。

真田丸の抜け穴

真田幸村が大坂冬の陣の時に、真田丸から大阪城へ繋がる抜け穴であるとの伝承になっている。
恐らくは、徳川勢が真田丸を攻める為に、途中まで掘った穴と推測できる。
現在は危険であるため、抜け穴の入口は「真田の六文銭」の鉄の扉で閉ざされている。

三光神社と真田幸村の抜け穴?【訪問記・写真集】

心眼寺とまんなおし地蔵尊

心眼寺には真田丸の出城跡と言う石碑が建っている。
かつては、真田幸村の鎧掛けとされる松の木もあったが、大阪大空襲で焼失している。

心眼寺

下記写真は、山門前にある「まんなおし地蔵尊」で、開運を導く地蔵として信仰されている。

まんなおし地蔵尊

心眼寺の訪問記・写真集はこちらに詳しく掲載中。

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ちなみに、大坂の陣では、筑波山・中禅寺の光誉上人が、大阪の陣に従軍しており、負傷兵に「陣中膏・ガマの油」を配ったとされている。

真田幸村の生涯に関してはこちら
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御宿友綱 御宿勘兵衛の活躍
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