日秀尼とは
日秀尼(にっしゅうに)は天文3年(1543年)、木下弥右衛門と大政所(なか)の長女として生まれ、本名を智(とも)と命名されました。弥右衛門同を父に持つ弟に豊臣秀吉、義父の竹阿弥を父とする異父弟妹(※1)に豊臣秀長と朝日姫(駿河御前)がいます。
彼女がどのような少女時代を過ごしたかは不明ですが、日秀尼(以後、この名前で統一)は尾張国海東郡(現・愛知県海部郡)の住人である弥助(のちの三好吉房)と言う男性と結婚しました。彼女がいつ弥助と結ばれたかは詳しく分かっていませんが、弥助との間に豊臣秀次を儲けたのが永禄11年(1568年)であるため、それ以前に結婚していたことは明確です。
弟の秀吉が家を出ていたため、母の大政所が竹阿弥を迎えたように婿を取ったのか、それとも嫁いだのかもはっきりしませんが、長男の秀次が当初は三好の姓を名乗っているため、後者の可能性が高いと思われます。なお、日秀尼と弥助の夫婦仲は悪くなかったらしく、永禄12年(1569年)に次男の豊臣秀勝、天正7年(1579年)には末子である豊臣秀保が生まれており、男子に恵まれていました。
出世頭の弟と共に栄達する
下級武士ないしは名主百姓の娘だった日秀尼と彼自身も百姓身分(※2)と言われる弥助、そして3人の子供達の人生を激変させたのは、織田信長に仕官して頭角を現した秀吉でした。この時に夫の弥助が木下姓を名乗って秀吉のもとで士分に取り立てられ、平凡な生活を送っていた一家は出世街道を邁進する秀吉と共に富貴への道を歩みます。
更に栄華が訪れたのは、天正10年(1582年)に本能寺の変が起こり、信長が殺された時のことです。信長の死で脅威が去って勢力を盛り返した長宗我部元親と対立していた三好康長(笑巌)が、秀吉に接近して来たため秀次が三好家の養子に迎えられます。その時、日秀尼も三好姓を名乗って弥助は三好吉房と改名しました。幸せの絶頂期にいた日秀尼一家でしたが、その幸福も長くは続きませんでした。
愛する人々に先立たれた晩年
天正19年(1591年)、長男秀次は叔父の秀吉から関白職を引き継ぐと日秀尼らは聚楽第に移り住み、秀吉の嫡男であった鶴松が亡くなると秀次は秀勝ともども秀吉の養子になります。しかし、その直後から日秀尼と吉房の子供達には次々と不幸が舞い込んできたのです。
最初に災いが起きたのは次男・秀勝で、文禄元年(1592年)に文禄の役で朝鮮に渡った際に巨済島で病死します。同年には母の大政所が亡くなり、文禄4年(1595年)には末子の秀保が17歳の若さで急死し、その前年に実子お拾(豊臣秀頼)を授かっていた秀吉は、秀保の葬礼を出すなと命じる不可解な騒動が起こりました。
そして、同年の7月に秀次は高野山に送られて蟄居・出家を命じられた上に切腹を命じられてその一族郎党は処刑の憂き目を見てしまい、夫の吉房も連座して讃岐(香川県)へと流される惨劇に発展します。更には秀次の妻妾と彼女らが生んだ子供達、すなわち自身の孫までも秀吉に処刑された日秀尼は聚楽第を追われる形で嵯峨野に移り住み、善正寺の基礎となった庵を結びました。
翌文禄5年(1596年)、日秀尼は京都の本国寺(現・本圀寺)の日禎上人のもとで得度して出家、かねてから帰依していた日蓮宗の寺を建立します。その折に、日秀尼には思いがけない救いの手が差し伸べられました。彼女のことを知った時の帝・後陽成天皇から瑞龍寺の号と寺領1000石を賜り、日秀尼は同寺の住職として新たな人生を送ることとなったのです。後にこの寺院は公家の姫や皇族の皇女を貫首にする日蓮宗で唯一の門跡になりました。
瑞龍寺建立から2年後の慶長3年に弟の秀吉、慶弔17年(1612年)には夫で彼もまた出家していた三好吉房を見送り、慶長20年(1615年)に豊臣家が滅亡した大坂夏の陣では甥の秀頼や孫娘のお菊(秀次の子供)が次々と自害ないしは処刑で世を去ります。そんな苦痛と悲劇を味わいつつも日秀尼は生き続け、寛永2年(1625年)に92歳の長寿を保って寂滅しました。
墓所は彼女ゆかりの瑞龍寺、本圀寺、そして秀次の菩提寺である善正寺の3ヶ所にあり、戦国乱世の栄枯盛衰を見続けた日秀尼は救えなかった愛する我が子と共に眠りについています。
(寄稿)太田
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