「本拠地/居城」移転に踏み切れなかった戦国英雄たち。その理由とは?

本拠地/居城




 皆様ご存知にように、日本戦国期には有名無名を問わず数多の戦国大名(武将)が存在しました。今年のNHK大河ドラマ『麒麟が来る』の主人公・明智光秀(1528?~1582)、その好敵手である羽柴秀吉(1537~1598)など誰もが知る有名武将を双璧に、他にも光秀たちに直接的・間接的、或いは無関係に存在した武将も無数に存在しました。
 因みにコーエーテクモゲームスさん制作の人気ゲーム「信長の野望」シリーズの最新作「大志」での登場武将数は2000人という途方もない多さであります。ゲームという創作世界でもこれほどの武将数が登場しているので、史実ではそれ以上の武将が存在し、動乱期を必死に生きていたことも容易に察しが付きます。それにしても2000以上の武将のデータをプログラミングを行うことを思うと、ゲーム開発部の皆様のご苦労は、(お仕事とはいえ)相当なものであると思います。信長の野望の一ファンである筆者としては、ゲームを創って下さる皆様には尊敬の念を抱いております。


 その星の如く存在した戦国武将の中で、自勢力の政治経済・軍事の本拠地となる居城を、複数回に渡って移転させていったのは、尾張国(愛知県西部)の戦国大名織田信秀(1511~1551)』とその嫡男で天下の覇者となる織田信長(1534~1582)』でした。信秀・信長父子、今年の大河ドラマの主要登場人物たちでもありますが、この親子ほど居城を「情勢や経済拠点の把握」のために移転させていった戦国大名もおりません。
 偉大な諸先生や研究員の皆様のご尽力によって日本戦国史についての新事実や新説発表などが著しい近年でございますが、その中の1つに、織田信秀の優れた器量に注目されるようになってきました。信秀の子である信長が政治・経済・軍事面において戦国期随一の革新者(イノベーター)であり、それらの力を活かすことによって天下の覇者となることは周知の通りでございますが、その信長の巨大勢力の根本的基盤となった経済力(金、貨幣)とその力を有効に活用する合理的思考は、父である信秀の代から育まれたものでした。
 元来、尾張国というのは木曾三川という大きな河川を有する肥沃な濃尾平野が広がり、知多半島には平安期から盛んな陶業「常滑焼」が栄え、陸上交通では東海道を有し、水上交易の要衝である伊勢湾をも抱くという正しく天賦の国富というべき地域でしたが、その中でも『津島』・『熱田』という貿易港が尾張国内の有数の経済拠点でした。そして、津島湊を信秀の父、即ち信長の祖父である織田信定(信貞とも)が抑え、熱田湊を信秀が支配下に治めたのであります。
 因みに、今年の大河ドラマでは、商業が盛んで殷賑を極める熱田のシーンが時折取り上げられていましたが、ドラマという創作世界といえ、正しくあの様に商業流通が活発な市場街であったのではないでしょうか。
 信定は要衝・津島湊とその有徳人(富豪)たちの支配を固めるために、津島の有力国人衆・津島氏と縁戚関係を結ぶ一方、勝幡城を築城。ここを(織田弾正忠家の)本拠として定めています。


 勝幡城で誕生し、信定から家督と津島湊を受け継いだ信秀が、那古野城を謀略で奪取したのに次いで、もう1つの要衝・熱田湊を獲得した際には、古渡城に本拠を移して、商業流通都市・熱田の支配権を確固たるものにしています。また信秀の晩年(信長の青年期)には、隣国である三河国(愛知県東部)の領有を巡って、駿河国(静岡県東部)の有力戦国大名・今川義元との対立が先鋭化した状況に応じて、信秀は末森(末盛)城を築城。今度は古渡から末森へと居城を移し、駿河今川氏に備えています。因みに信秀が42歳(1551年)の若さで病没したのはこの末森城であります。
 即ち信秀は、熱田などの「経済流通圏の支配強化」、「駿河今川氏戦線(敵対勢力)に備える」という政戦略目的で、自勢力の政治軍事の本拠となる居城を複数回に渡って移転させてるのであります。信秀の採ったこの「引っ越し戦略?」というべきものは、(尾張国内という極めて限定的な地域内ではありますが)、戦国期当時では極めて特異なことでありました。そして、この信秀の戦略をよりダイナミックな全国規模で展開して、後々の日本都市計画(城下町構築)に多大な影響を与えたのが、信秀の跡を継いだ信長であります。
 信秀・信長父子の同時代である「武田信玄(1521~1573)」・「上杉謙信(1530~1578)」・「北条氏康(1515~1571)」・「毛利元就(1497~1571)」といった誰もが知る各地方の有力戦国大名たちも、広大な領域を支配していましたが、信長よりも戦上手なこの名将たちは生涯に渡り、本拠地=居城を移転させることはありませんでした。
 信玄は躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)、謙信は春日山城(新潟県上越市)、氏康は小田原城(神奈川県小田原市)、元就は吉田郡山城(広島県安芸高田市)というように、政戦略的理由に応じて本拠を移すことなく、正に動かざること山の如く、1つの拠点を本拠地として一貫させています。
 信玄・謙信・氏康の「戦国関東三国志」が本拠として定めている場所は、各国随一の経済拠点(湊や穀倉地帯)を抑えるという理由が見て取れ、本拠を移さなかったということを思いつけるのですが、一国人領主から中国地方の覇者までに成り上がった元就の場合は大勢力になっても、決して裕福な経済地域と言い難い安芸国の山間にあるの吉田郡山城(吉田荘)を生涯の本拠としています。
 元就ほどの地方の覇者ともなれば、吉田郡山よりも経済的に恵まれた要地、例えば、瀬戸内海(大陸交易路)に接する桜尾城(広島県廿日市市)周辺、あるいは、かつて毛利氏の盟主であり西日本最大の戦国大名・大内氏の本拠地であり、「西の京都」と称せられたほど文化・経済面で大いに栄えた山口館(山口県山口市)にでも本拠を移せば良いのでは?と筆者は思ってしまうのですが、やはりやっておりません。寧ろ「出来なかった」という言い方のほうが正しいかもしれません。
 本拠移転、現代風に言えば引っ越しのようですが、交通・流通方法が戦国期とは比較できないほど発達整備されている現在でさえも、家族および1つの会社が他所の新居・本社へ引っ越す(本拠移転)というのは経済的・体力的に大きな負担になります。ましてや大名、その血縁者、そして何百・何千という家臣団とその家族が総出で本拠を移転させるというのは、大名本家および家臣団に掛かる負荷は大変ものである上、大名が居城を遷すということは、それまで整っていた家中の支配体制や序列がご破算となり刷新されることにもなるのです。
 古代では、国家規模による本拠移転がありました。桓武天皇(第50代天皇 737~806)が、強大な権力を持ち政界に容喙してくるようになった宗教勢力との縁を切り、朝廷勢力を刷新するべく奈良平城京を棄て、784年に当時殆ど未開の地とされていた山城国長岡京へ遷都を敢行、そこでの統治が思わしくなったので、今度は10年後(794年)には平安京、即ち京都に遷都しています。つまり桓武天皇は2回も朝廷の本拠移転を敢行することにより、日本国統治機構の刷新を図ったのであります。
 桓武天皇の自主的本拠移転とは意を異にしますが、戦国期における本拠移転/転封で有名なのが、徳川家康が豊臣秀吉によって命じられた関東移封(1590年)があります。
 家康は関東に本拠(江戸)を移転させた後、関八州250万石という大領の内、100万石以上を蔵入地(直轄領)とし、配下の家臣団の殆どには1万~5万石の低石高のみを分配し、それまで緩い主従関係で成り立っていた戦国大名・徳川氏体制を刷新。これにより家康を中心とする徳川宗家の集権体制を築いています。
 また後年、名実共に武家政権の長となった江戸幕府が、幕藩体制下の大名たち(鳥取池田氏と岡山池田氏など)に国替・転封、即ち引越しを命令することにより大名たちの力を割き、幕府に対しての叛乱心を抑え込んだ政策は有名であります。



 
 桓武天皇が敢行し、長らく日本の首都として日本史に重きをなす京都(平安京)への遷都事業。そして、家康が秀吉によって強いられた関東移封/強制的本拠移転は、天下人となる徳川氏の家中体制を強化できたこともあり、これらの本拠移転は結果的には成功であったのですが、家康の先輩筋に当たる武田信玄や毛利元就はどうであったのか?結果から言うと、やはり信玄と元就の其々の一代では本拠移転をすることなく生涯を終えています。
 大名1人に権限が集中している、(後の江戸幕府や明治政府のような)強権的な中央政権体制ではなく、何処までも味方の有力国人領主層の支えによって勢力(家中・家臣団)が成立している「寄り合い所帯勢力=中世型戦国大名」であり、家臣団の負担を与え、支配体制などに変化をもたらす本拠移転は、家臣団に混乱を招くことが大きいので、安易に敢行できるものではなかったのです。
 実際、信玄の父であり戦国大名・甲斐武田氏の礎を築き上げた武田信虎(1497~1574)が、それまで武田氏の本拠地であった石和館(山梨県笛吹市)から躑躅ヶ崎館(同県甲府市)と城下町を築いて本拠移転させた際に、傘下の一門衆や国人領主層に城下町に集住、つまり武田主家への強い服従を命じたために、独立心の強い国人衆の動揺を招き、大井氏などが信虎に対して反旗を翻しています。
 また信玄の跡を継いだ武田勝頼(1546~1582)が晩年期に、天下の覇権を把握していた織田信長の侵攻に備える戦略的目的、更なる城下町拡張という経済成長目的として、防備が薄い躑躅ヶ崎館から要塞堅固な山城の新府城(同県韮崎市)に本拠を移転した際(1581年)にも、配下の国人衆に新府城築城普請などの賦役と納税を命じて大きな負担を強いたこともあり、勝頼に不満を抱いた武田氏の外戚である木曾義昌の離反(信長への内通)を招き、これが織田信長による甲州征伐(1582年、武田氏滅亡)の起因となっています。即ち勝頼は本拠移転に失敗してしまったために、自身と武田氏の寿命を縮めてしまったのであります。
 信玄の武田氏と同様である国人領主の寄り合い勢力である元就の毛利氏も、山陰山陽、北九州などを制するあれほどの大勢力となったにも関わらず、長い間本拠移転することなく安芸の狭隘な山間地である吉田郡山城に留まっています。
 筆者も5年前ほど前に機会に恵まれ、元就の本拠地であった吉田郡山城跡とその旧城下町(安芸高田市市内)を訪れたことがありますが、四方を丘陵に囲まれ平坦地が少ないので、配下国人衆や家臣、多くの商工業者などを集住させるための大規模な城下町を町割(構築)することには適さない地理的条件であり、中国地方の覇者が君臨する首邑しては侘しい場所であります。
 因みに、信玄の膝下である躑躅ヶ崎館の甲府市、上杉謙信の春日山城の上越市、北条氏康の小田原城の小田原市は、何れも戦国期当時でも有数の城下町として有名であり、現在でも各県下の県庁所在地および重要地方都市として存在しています。そのいう意味では、元就が終生過ごした山間の旧吉田町=安芸高田市は、やはり上越市などの地方都市に比べ侘しさを感じることを禁じ得えません。
 上記の甲斐武田などの有力勢力は城下町に配下国人衆の屋敷を構えさせ、更に城郭や建造物を建てるために必要な「番匠(大工)」、鉄砲や刀剣を造るための「鍛冶師」、甲冑を造るための「鋳物師」や「皮革細工師」など多くの職人芸人も、高禄給与や免税措置などの様々な好待遇で以って城下町に集住させ、自勢力の経済技術の発展に腐心しています。
 特に謙信の春日山は、古来より活発であった日本海航路の重要寄港地であった直江津、次いで柏崎を抑えるには絶好の要地である上、宿敵・信玄を討つために甲信地方に進出するための要衝でもあったのです。つまり謙信は陸海の交通および経済的要衝を把握するために、敢えて本拠移転を行わなかったことが察せられます。


 伝馬制の整備・検地・減税・上水道整備などの政策を積極的に実施し、戦国随一の民政家と謳われる北条氏康も、父・北条氏綱が後北条(当初は伊勢氏)が伊豆国韮山城(静岡県伊豆の国市)から相州小田原城へ本拠を遷した以降、城下町に鍛冶職人・染物業などの多くの職人を保護することで、更なる自勢力の商工業の活性化を図っており、その結果、前掲の周防(西方)の大内氏の城下町・山口と並んで、相模(東方)の後北条氏5代の小田原城下町は、当時東国最大の城下町として殷賑を極めていたことは有名であります。
 謙信・氏康の場合は、経済的要地を把握できる地理的好条件に本拠を構えている以上、何も大きな労力や財力を消費し、配下国人衆たちの不満や動揺を招く本拠移転を敢行する必要はなかったという理由が容易に思い付くのであります。しかし、(しつこいですが)、その一方で先述の元就が大勢力になった後も、特別産業や湾港、鉱山も無い山間の吉田郡山城を本拠地としたことが、筆者としては引っ掛ってしまうのであります。
 一説では、元就は隠居城として、安芸国守護大名・安芸武田氏の旧本拠地であり、当時の安芸国内の経済流通の要衝でもあった佐東銀山城(広島県広島市安佐南区)を候補していたことがあると言われていますが、飽くまでも毛利氏本拠移転ではなく、「元就自身の隠居城」である上、結局はそれも実行はされず沙汰闇になっています。
 元就一代で、毛利は中国地方10ヶ国を支配下に置く覇者へと急成長を遂げましたが、元々毛利は安芸吉田盆地一帯のみを治める零細国人領主であり、宍戸・吉川・小早川・天野・熊谷などの同僚の国人領主層を謀略・外交などで盟友に加えた所謂、『国人一揆から成る戦国大名』(先述の国人衆の寄り合い所帯)であり、毛利自体は決して独りよがりの権力は保持していなかったことが覇者・毛利氏の勢力実態でした。
 その様な大名と配下国人衆との関係が堅固ではない勢力体制である毛利氏が強硬に本拠移転をしてしまうと、~前掲の武田勝頼の本拠移転が好例であるように~、配下の反発を招き、内から毛利氏が崩壊してしまう公算がありました。筆者が思うに、元就はその事が怖くて、あれほどの大勢力になり「西の山口」(旧大内氏本拠)と謳われるほど経済文化で栄えた城下町を領域に治めながらも、終生吉田郡山という小さな盆地を本拠地としたのでしょう。
 何故、国人衆たちは隷属先である戦国大名の本拠移転を歓迎しなかったという理由でありますが、「労力と財力負担」という経済的理由、「家中の序列が変形する」という身分秩序崩壊への不安理由があったと思うのですが、あと国人衆というのは、本来自分の領地(農地/経済基盤)を命を賭けて守るという『一所懸命』を主題(スローガン)とする『武装農場主勢力』であります。この興りが平安末期(12世紀末)に、当時未開の地(東夷)として京都および西国から蔑視されていた坂東(関東)の土地を基盤とした、関東武士団=関東農場武装集団であり、この農場主連合が、自分たちの土地所有権を護るために、武家貴族であり東国で逼塞していた源頼朝を奉戴して鎌倉の地に幕府を築いたのが、武家政権(中世武士団)の始まりであります。
 戦国期の武装農場主=国人衆(地侍も含む)も、元来は自分の土地を護る中世武士団の延長であり、先祖代々および自分が命懸けで護ってきた土地から離れることを極度に忌避する連中でもありました。
「身土不二」という仏教用語がありますが、文字通り「身が拠り所にしている地(環境)からは離れなれない」という意味でありますが、正に命を賭けて領地を拠り所にしている国人衆のために存在するような言葉であります。だから国人衆の主筋である戦国大名が身土不二を犯すように、他所の地域へと本拠移転をするのを容認するのは精神的に辛かったこともあったと思います。



 
 毛利の場合、毛利本家を含め、吉川・小早川・熊谷などの配下国人衆は何れも鎌倉期に関東から興った武装農場主を先祖に持つ正真正銘の「中世武士団の末裔」であり、転封や本拠移転を歓迎できないという雰囲気が濃厚に存在し、元就がその空気を敏感に感じ取っており、本拠移転をやらなかったとも思えるのです。或いは元就も先祖代々の領地に対して身土不二という心が強い国人衆の出身であるために、(自身の高齢も理由もあると思いますが)、本拠移転を考え付かなかった理由もあったかもしれません。
 以上から出される意味では、毛利元就自身およびその配下の国人衆も、他にも経済的に恵まれた土地が自分たちの勢力圏にあるにも関わらず、自分達の代々の領地と城館に固執する極めて保守的かつ不合理な人物たちと考えられるのですが、元就が活躍した戦国初期(1500年から約50年間)には新天地を求めて本拠移転をするというフロンティア精神が旺盛ではなかったという風潮もあったと思います。
 因みに、毛利氏が吉田郡山から大平野(湿地)である広島に本拠を移転するのは元就の次代である毛利輝元(元就の嫡孫、1553~1625)であり、この時には全国における大名の本拠移転ということが頻繁に行われている時期でもあり、輝元も当時の天下人であり毛利の庇護者的存在であった豊臣秀吉の権威を借りることによって、移転を厭う毛利配下の国人衆を抑え込みむことによって広島城とその城下町を築き、同地を本拠地として定めています。現在の広島市の発展はこの時から漸く始まったというべきでしょう。

 以上のように、(現在の企業や国家でもそうですが)、有力な戦国大名が本拠を移転させるというのは大変なものであり、無闇に断行すれば、家臣団の造反、勢力の減退、最悪の場合は滅亡という結果を招きかねない、デリケートな方策であったのであります。そういう「自勢力(戦国大名)の居城を、積極的に移転させるという風潮が希薄な時期」に、織田信長が、父・信秀に倣って、本拠移転における問題点(家臣たちの動揺など)を克服し、大々的に本拠移転させ、しかも成功(勢力伸長、天下の覇者への確立)させていっているのですから、信長という戦国大名はその点を以って考えてみても、偉大な器量を持っていたことがわかります。
 因みに、信長が積極的に本拠地を他所から他所へと移転させてゆくということを行った以降、他の戦国大名および江戸初期の近世大名も信長を倣って、山間にあるような先祖代々の城館やそれまで旧室町期守護大名の本拠地=その国の政庁機関を棄て、たとえ未開の地であっても経済発展を大いに望める地理環境(例:大河川や港湾付近の湿地帯や不毛地帯など)へと本拠を遷し、新たな城郭および大規模な城下町の町割・埋立の土木工事を行い、この結果が現代まで続く国内地方都市の原型が築かれているのであります。
 その好例が、先述の毛利の広島への移転であり、信長の愛弟子的存在であった名将・蒲生氏郷(1556~1595)の伊勢松坂城などがあるのですが、何れにしても信長が多く行った革新的な政策の1つである本拠移転、別の言い方をすればデベロッパー(土地開発者)としての足跡も、その後の日本史に遺した偉業の1つと言えるでしょう。


 信玄や元就という稀代の名将たちでさえ足踏みしてしまう本拠移転という大事業を、信長は何故敢行し続けたのか?白状致しますと、今回の記事内で「信長の引越し大作戦」についても紹介させて頂くつもりでおりましたが、相変わらず筆者の文章纏めの拙さが顕れてしまい、前置きというべき信長以外の戦国大名が本拠移転をしなかった理由について長々と書き連ねてしまいました。拠って、信長の本拠移転については別機会にさせて頂きます。
 
(寄稿)鶏肋太郎

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