徳川家光
徳川家光(とくがわ-いえみつ)は、江戸時代の慶長9年(1604年)7月17日、江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の次男として江戸城・西の丸にて生まれした。
母は正室・お江(お江与、浅井長政の3娘)です。
江戸幕府が280年続くことになったのも、この徳川家光の功績が大きいと存じます。
そんな徳川家光の政策面を中心に、徳川家光から見習うべき点をご紹介したいと思います。
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大坂の陣にて豊臣家を滅亡させた初代の将軍・徳川家康の死後、父である徳川秀忠による単独の治世となりましたが、1623年に父が隠居し、将軍職が20歳の徳川家光に譲られました。
なお、将軍継承では、父・徳川秀忠が、徳川家光の弟である国松(徳川忠長)を溺愛したため、家光の家督継承を危惧した乳母・春日局が、ご隠居の徳川家康に願い出たため、家光の世継決定が確定したと言われてます。
このように万全な体制での後継ぎでないだけでなく、1624年には、父の考えで、公卿の娘である鷹司孝子(たかつかさ-たかこ)が家光の正室になるなど、隠居した徳川秀忠は引き続き実権を握り、二元政治となりました。
そのため、父・徳川秀忠の存命中はほとんど目立った政策は行われませんでしたが、1632年に亡くなったあと、本領を発揮しています。
まずは、徳川直臣である旗本を再編し、幕府には老中・若年寄・奉行・大目付と言う役職を設け、将軍を最高権力者「公方」と言う位置づけを確立させ、平和な世の中の組織に作り替えました。
重臣としては、大老の井伊直孝・土井利勝・酒井忠勝、老中としては松平信綱・阿部忠秋・堀田正盛(春日局の義理の孫)、大目付として中根正盛などがいます。
そして、熊本藩主・加藤忠広を改易するなど、譜代や外様を問わず、有力大名の改易と転封を行い、重要拠点には親藩・譜代大名を配置し、徳川家の支配をさらに固めました。
1635年には武家諸法度の改訂し、諸大名に参勤交代を義務づけました。
長崎でのポルトガル・オランダとの貿易も幕府が独占し、長崎奉行を送って管理統制させています。
1637年に発生した、天草四郎らによる島原の乱も鎮圧すると、ポルトガルとは決別し、1641年にはオランダ商館を長崎の出島に築き、オランダとの貿易に絞ると言う鎖国政策を完成させました。
しかし、問題だったのは、正室・鷹司孝子との間に子がいなかったと言う事です。
徳川家光は男色を好んでいたともされ、鷹司孝子とは仲が悪かったようで、困った春日局は「大奥」に美女などを集めて、徳川家光の手がつくようにします。
そして、側室・お振の方が産んだのが、1637年に生まれた千代姫であり、のち1641年には側室・お楽の方(宝樹院)が、4代将軍となる、徳川家綱を産みました。
このことにより、以後、大奥は将軍の世継ぎを設けるために機能していきます。
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なお、徳川家光は、日光東照宮を大規模改修させるなどしました。
このように、政治手腕として優れていた徳川家光の政策によって、幕府権力を基礎固めしただけでなく、諸大名に対する幕府の絶対性を確立させ、以後、徳川幕府が続いたのです。
もっと、詳しくご紹介したいところですが、3分としていますので、この辺に留めておきます。
1651年8月20日、江戸城にて徳川家光は死去しました。享年48。
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