井伊直平と井伊直宗や井伊直満の関係とその生涯【井伊家】井伊直義と井伊直元も

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井伊直平とは

井伊直平(井伊修理亮直平)は井伊谷城主・井伊直氏の子として1488年に生まれた。

井伊家は井伊直平・井伊直宗井伊直盛(井伊直虎の父)と続き、この3世代が同じ時代に「生きて」おり、1人1人紹介すると、かえってわかりにくいため、この3人をまとめて、わかりやすく記載したい。

井伊直平の子

井伊直平(いい-なおひら)には5人の男子がいる。ただし、生年はいずれも不明であるが、まずはご紹介したい。

嫡男は井伊直宗(いい-なおむね)で、井伊宮内少輔直宗とも。

次男は南渓瑞聞である。この頃の武家では、次男は「出家」することが多く、井伊家も例外ではなかった。
南渓瑞聞はのちに菩提寺の龍潭寺(りょうたんじ)二世となっている。

3男・井伊直満で、井伊信濃守直満とも。子に井伊亀之丞(井伊直親)がいる。1544年12月23日に井伊直義と共に自害。

4男・井伊直義。1544年12月23日に井伊直満と共に自刃。

5男・井伊直元は、井伊形部少輔直元とも。

また、娘のひとりが、今川家の重臣・関口親永の側室になっている。側室になった時期は不明となっているが、恐らく今川義元に臣従した際には人質のような形で娘を差し出し、のち今川家の重臣・関口親永の正室になったものと推測できる。
なお、嫁ぐ際には、今川氏親の養女(今川義元の養妹)となって、関口親永と結婚したようだ。
この井伊直平の娘は、のち松平元康(徳川家康)が正室とした関口瀬名(築山殿)を産んでいる。

井伊直虎の井伊家家系図

井伊直宗から浮かび上がる疑問点

井伊直平の嫡男・井伊直宗の子である井伊直盛は1506年に誕生したとされる。
しかし、この1506年は井伊直平がまだ19歳と考えられるので、その19歳・井伊直平の子である井伊直宗は1506年の時点でまだ幼年と考えられ、子・井伊直盛ができたとは考えにくい。
そのため、井伊直盛が生まれた1506年と言うのは、誤りなのか、それとも養子だったのか?
そもそも井伊直平が1488年よりもっと前年に生まれていたとも?考えられる。


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井伊直平の功績と井伊直宗・井伊直満

1498年、大地震が発生して、遠江の新井崎が破壊され、浜名湖と外洋が通じ、このため本坂道がにわかに重要となった。

1504年、今川勢が三岳城の集落を放火し家屋が全滅した。

1510年、斯波義達が5000で井伊谷西牧の宝光庵に陣を構えたため、井伊直平は三岳城にて籠城した。
今川氏親は伊達忠宗(伊達蔵人忠宗)を刑部城堀川城に入れると、忍びを放って斯波義達と井伊直平を攻めて、宝光庵が火災となっている。
以後、井伊直平は斯波義達に味方したため、今川氏親の攻撃にされされた。

1511年にも三岳城にある井伊直平の陣所・番所が忍びによって放火されたが「井伊直平判物」(永正八年十一月十三日付)が現存しており、この時点で井伊直平が井伊谷に勢力を持っていることが分かるが、曳馬城主も務めていたことがあり、当時の井伊領は浜松から北部まで支配していたものと推測できる。

1514年、引馬城主・大河内貞綱が尾張の斯波義達と結んで、駿河・今川氏親に対抗すると、井伊直平・井伊直宗ら井伊家一族は大河内貞綱に協力して、領内の井伊城(三岳城、御獄城)にて籠城した。
しかし、今川家の朝比奈泰以(朝比奈泰煕)による総攻撃を受けて落城し、井伊一族は、奥山城へ逃亡したあとに今川氏親に降伏した。
ちなみに、今川氏親は家臣・奥平貞昌を三岳城城番としている。

三岳城の本丸

その頃、井伊直宗の嫡男・井伊直盛が誕生し、1530年頃に井伊直盛は新野親矩の妹(友椿尼)を正室に迎えて、娘・次郎法師(井伊直虎)が生まれたものと推測する。

1532年、井伊直平は黙宗瑞淵を迎えて自浄院を禅宗に改めて龍泰寺を建立し菩提寺とし、井領田3反を寄進。(1507年?の可能性もある。のち1560年に龍潭寺と名称変更。)

1535年、井伊直満(井伊信濃守直満、彦次郎)の子である井伊亀之丞(井伊直親)が誕生。
また、詳しい年はわからないが、この頃、井伊直盛の娘である次郎法師(井伊直虎)も誕生したと推定される。
井伊直盛の正室は新野親矩の妹(友椿尼)であり、新野親矩(新野左馬助)は新野新城(舟ケ谷城)城主の今川家の一門でもあった。

1536年頃、亡き今川氏輝の後継者として花倉の乱を制した今川義元が今川家の当主となる。
1537年、今川義元は武田信虎の娘(定恵院)を正室に迎え、武田と甲駿同盟を結んだ。
普通に考えると、この頃に井伊直平は娘を今川義元の側室にすることに成功し、没落していた井伊家を再興させたのでないだろうか?

1540年、尾張の織田信秀が三河・安祥城を攻略すると、松平家は今川家を頼って従属され、以後、織田家と今川家は対立した。

1542年8月、太原雪斎と今川義元は西三河の織田家勢力を排除する為、井伊直宗と井伊直盛らは今川家の三河・田原城攻めに参陣した。小豆坂の戦いである。
この時、既に井伊直平から家督を譲られていた井伊家当主・井伊直宗が野伏の襲撃を受けて討死。
ただし、没年は1546年、1551年とする説もある。

いずれにせよ、そのあとは子の井伊直盛(井伊信濃守直盛)が井伊家を継いだ。

なお、井伊亀之丞(井伊直親)の父・井伊直満と、その弟・井伊直義は、武田信虎との内通を疑われて、井伊直満と井伊直義の2人は、1544年12月23日に自刃させられているが、この詳細に関しては井伊直盛のコーナーで触れたい。

また、家督を譲って隠居した井伊直平は長生きしたようで、1563年に毒殺されて76歳の生涯を閉じたが、その経緯に関しては、井伊直虎のコーナーで触れさせて頂いているので、合わせてご覧願いたい。

井伊直平が毒殺された概要としては下記のような形となる。

井伊直平の毒殺事件

永禄6年(1563年)9月上旬、今川氏真は、亡き今川義元の弔い合戦のため西へと向かい吉田城付近まで侵攻する。
この時、井伊家にも出陣命令があり、井伊直平を大将に井伊谷から浜名湖の西側を南下して白須賀に野営したようだ。
しかし、その白須賀の陣中から出火して、飛び火が白須賀の宿場街に広がり焼きつくしたと言う。

この話を聞いた今川氏真は、井伊家が謀反を企んでいると断定し、後ろからは挟み撃ちにされるのを恐れて、急ぎ姫街道沿いに掛川城まで撤退した。
そして、今度は磐田の社山城主(犬居城主とも)・天野左衛門尉(あまの-さえもんのじょう)が謀反を起こしたから、その討伐に井伊直平も加わるように命じる。
こうして磐田へ向かおうとしていた井伊直平は、飯尾連龍(飯尾連竜)の引馬城に寄る。
この時、今川氏真の命を受けていた飯尾連龍(飯尾連竜)は、妻・お田鶴の方(椿姫)に頼んで、井伊直平の一行に毒茶を呑まさたとされている。

このお茶には毒が入っていた訳だが、即効性のある毒では無かったようで、馬にまたがり有玉旗屋の宿を通過した頃に、井伊直平は突然落馬したと言い、同じくお茶を飲んでいた家来も倒れたとされる。
※井伊家伝記には毒死しとあるが、戦死だとする説もある。

下記は井伊直平が毒殺された場所とされる有玉旗屋の宿は、この浜松の大菩薩坂の近くにあったようだ。

新城市にある欠下城ではなく、浜松の欠下城の話となるが、大菩薩坂は欠下城(かけしたじょう)り南側に当たる。
場所はオリジナルGoogleマップにて示している。

大菩薩坂

比高22mの欠下城は城の西側を「大菩薩山」と言うため大菩薩城とも呼ばれるが、現在、城には東名高速が貫通してしまっている。
なお、戦国時代に、城として機能していたかはわかっていないようだ。

三方ヶ原の戦いの際には、秋葉街道を南下して馬込川を渡った武田信玄が、大菩薩坂を登って一旦休憩したあと進軍したと言う。

井伊直満の屋敷跡とされる足切観音

足切観世音(あしきりかんぜおん)と言うお堂が、井伊谷城の東側にある二宮神社より下にある。

この足切観音堂がある場所は元々、二宮御所と言い、南北朝時代の1339年に、井伊道政が二宮・宗良親王に味方していた際の親王の住まいだったと言う事になる。
戦の際に、宗良親王が足を負傷して落馬したが、本人に怪我はなく、代わりに護持仏の片足が、血に染まっていたという伝説が残る。

戦乱にて矢を受けた宗良親王であったが、観音さまの夢を見ていたと言う事で、なぜか矢の傷が無かったと言う事で観世音を信仰するようになり、二宮円通寺を創建した。

その後、二宮御所跡には井伊直満らの舘があったが、武田勢の山県昌景が1572年に井伊谷に侵攻した際に二宮円通寺も焼失する。
なお、ご本尊は気賀に事前避難していて戦火を免れたと言う。

井伊谷の足切観音

そして、荒廃していたものを1649年に龍潭寺・10代和尚の独兒黙念(どくじもくねん)が足切観音堂を再建した。
下記はその足切観音の片隅にある地蔵さまとなる。

井伊直満の屋敷跡

さて、現在の足切観音は下記の地図ポイント地点の場所にあり、境内が駐車場にもなっている。
ただし、東側から入るには道も細くて舗装もされていないので、北側から入って行くのが妥当。

なお、井伊直松の墓は下記の井殿の塚となる。

井殿の塚にある井伊直満・井伊直義の輪塔

井殿の塚に関しての情報は下記をご覧願いたい。

井伊谷城と井殿の塚の訪問記~駐車場情報など【おんな城主・直虎】

鎧橋と井伊直平の墓

井伊直平の遺骸は、お茶を飲んでいなかった身分の低い家来(従者)・大石作左衛門(馬を引いていた)によって、隠居していた川名に運ばれる。
下記の鎧橋に差し掛かった際に、大石作左衛門は井伊直平の鎧を脱がした言う。

鎧橋

地元に伝わる伝承では、大菩薩坂で馬から落ちた井伊直平を「生きている」ように見せかけて大石作左衛門がここ川名まで運び、鎧橋にて甲冑を取ったと言う事になる。
そして、渓雲寺にて荼毘に付したと言われている。

渓雲寺

その後、鎧橋の向かい側にある丘となる向山の山中に埋葬された場所が、井伊直平の墓となる。

向山

井伊直平の墓への行き方ですが、下記の地点から山の中に入って徒歩で約3分の距離となる。

井伊直平の墓の入口

つづら折りの山道を上って行く。

井伊直平の墓

下記のような山道になっているので、軽登山の靴やスニーカーが良いだろう。

井伊直平の墓への道

その道を上り詰めると民有地の畑に出る。
左側にポツンと井伊直平の墓が建立されていた。

井伊直平の墓

なお、大石作左衛門は役目を果たすと、殉死したと言う。
井伊直平の墓を正面から撮影したかったが、そうすると、畑の中に足を踏み入れる事になる為、横からだけで撮影し、お参りさせて頂いた。

井伊直平の墓

頼りの井伊直平も亡くなり、井伊家の男子は幼い虎松だけとなるが、その虎松も命を狙われたため、鳳来寺に隠れるのである。

井伊直平の側室であった飯尾乗連の娘も命を絶ったと伝わるが、川名・渓雲寺の近くには、殉死した大石さんのご子孫の家が続いている。
下記は川名の里の様子。

川名の里

浜松の大菩薩坂・鎧橋・渓雲寺・井伊直平の墓へのアクセスと行き方や場所であるが、まとめて下記のGoogleオリジナル地図に示させて頂いているので、ご興味がある方はどうぞ。

井伊谷や直虎ゆかりの観光スポット・Googleオリジナル地図
井伊直盛に関してはこちら
井伊直虎についての詳細はこちら
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