寿桂尼(じゅけいに)は、藤原北家である勧修寺流の中御門家(公家)・権大納言中御門宣胤の娘で、兄に中御門宣秀、姉に山科言綱の正室がいる。
1508年(1505年とも?)今川家の第9代当主・今川氏親(35歳くらい)に嫁いで正室となった。
当時の今川家は、朝廷や室町幕府とも密接であり、今川氏親の姉が正親町三条実望に嫁いでいた事などから、公家から正室を迎えたようだ。
公家出身の寿桂尼との結婚により、今川家はより一層、京との繋がりが強まり、本拠地の駿府にも京の文化を取り入れたとされている。
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1513年、長男・今川氏輝、次男・彦五郎、1519年には三男・今川義元(今川氏親の五男)を産んだ他、瑞渓院(北条氏康の正室)も設けた。
今川氏親が中風で約10年間寝たきりになった際には、寿桂尼が政治を補佐したと言う。
1526年には、33条からなる家法「今川仮名目録」の制定にも、寿桂尼が関わり、意向が大きく反映されていると考えられているが、当時の女性が武家で政務に携わる事は非常に珍しい。
1526年、今川氏親が病死すると、剃髪して瑞光院寿桂尼となり、大方殿と称された。
今川家の家督は、今川氏輝が継いだが、まだ14歳という若年であったため、今川氏輝が16歳になるまで2年間、寿桂尼が自身の印判を用いて公的文書を発給し、今川家の国務を仕切っているが、この間、特に混乱は発生していないので、若い今川氏輝への家督継承を見事に果たしたと言えよう。
なお、寿桂尼の印判は今川氏親と結婚した際に、父・中御門宣胤が「嫁ぐ」という字が彫られた印を与えたと言い、このように政治手腕を発揮したことからも、寿桂尼は「女戦国大名」「駿府の尼御台」「尼御台」(あまみだい)とも呼ばれる。
※女性は花押を持てなかったため、公式文書には印を用いた。
また、武田信虎が、嫡男・武田晴信の正室に、三条家の三条の方を迎えるにあたっては、寿桂尼が仲介したとする説もある。
おそらく三条の方が甲斐へ輿入れする際には、途中、駿府でも滞在した事と推測できる。
1536年3月17日、当主・今川氏輝と上位継承者である弟の今川彦五郎が、同じ日に突然死去した。
この時、寿桂尼は太原雪斎と計り、出家して栴岳承芳と名乗っていた実子・今川義元を還俗させ、瀬名氏貞(瀬名陸奥守氏貞)ら有力家臣を味方につけて、甲斐の武田信虎と和睦を成立させ、支持を受けた。
これに反発した福島越前守(福島正成と同一?)が、側室(福嶋助春の娘)の子である玄広恵探を立てて家督争いである花倉の乱になっている。
5月24日、寿桂尼は恵探派の福島越前守と説得交渉をしたが失敗し、恵探派は久能山で挙兵となるが、寿桂尼らは相模・北条氏綱の支援も受けて鎮圧した。
こうして、今川義元が花倉の乱を制して家督を継ぐと、引き続き太原雪斎と共に今川家の行く末に大きく関わった。
1550年には武田信玄の嫡男・武田義信と、今川義元の娘・嶺松院との結婚を成立させた。
また、太原雪斎の交渉により、1554年7月には、北条氏康の娘・早川殿を今川義元の嫡男・今川氏真の正室に迎え、12月には武田信玄の娘・黄梅院が、北条氏政の正室となり、甲相駿三国同盟が成立した。
また北条氏康の5男・北条氏規が人質として駿府に赴いており、徳川家康と共に人質として寿桂尼が預かっていたようだ。
そして、1557年には、関口瀬名姫(築山殿)を今川義元の養女とし、徳川家康と結婚させている。
1560年、桶狭間の戦いにて、今川義元が織田信長に破れて討死したが、その後も、孫の今川氏真の後見として政治に関わったが、今川家は没落していく。
1568年3月14日、寿桂尼が駿府今川館にて死去。推定で80歳前後だったと考えられる。
「死しても今川の守護たらん」と言い残しており、駿府・今川館の東北である鬼門の方角にある、竜雲寺に埋葬されたと言う。
武田信玄が薩埵峠を越えて、駿河への進攻を開始するのは、寿桂尼の死から僅か9ヶ月後の事である。
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