グネッキ・ソルディ・オルガンティノ(ニェッキ・ソルド・オルガンティーノ)は、日本の戦国時代にあたる、1533年(1530年説あり)に北イタリアのカストで生まれました。
1556年、イタリアのフェラーラで20代の若さでイエズス会の司祭に就任したオルガンティノが来日したのは、5年後の1570年6月18日です。
その時に同行したイエズス会のメンバーにいたポルトガル宣教師であるフランシスコ・カブラルとオルガンティノは、前年にインド管区長代理の権限が両者に重複した事で争っており、それは後まで続きます。
かつてはイタリアのロレート、インドのゴアの大神学校で教える立場にあったオルガンティノが、日本での着任後に取り組んだのが、日本の言語と慣習について勉強することでした。
中でも1573年(天正元年)から翌年までの長期にわたって法華経を研究しています。
オルガンティノの日本布教はルイス・フロイスと共に京都地区から始まり、仏教界を始めとした旧勢力の警戒や妨害があるなど、困難な宣教活動であったと言います。
1577年(天正5年)から京都地区の布教責任者となったオルガンティノがとった方法は、宣教師側が現地の風習に合わせる“適応主義”でした。
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オルガンティノの適応主義は、日本の習慣どころか衣食住の文化にまで及んでおり、衣類は僧侶のような墨染めの服と草履、食事に至っては米食を愛好しました。
これは異文化・異教徒の風習を奇異なものと見ていた時代の人にとって、極めて勇気がいる行動であったことは想像に難くありませんが、オルガンティノは持ち前のポジティブな性格でそれを遂行し、多くの日本人と親交を持ちます。
その結果、着任からわずか3年で畿内の信者は当初の1500人から10倍の1万5千人にまで増大し、オルガンティノは“宇留岸伴天連(うるがんばてれん)”の呼び名で親しまれるようになりました。
彼も日本人を愛し、その明るく魅力的な人柄を武器にした適応主義による日本の民への布教は大成功したのです。
一方、対立した九州方面の責任者であるカブラルも信長に信頼され、足利義昭や大村純忠、大友宗麟ら権力者の信頼を勝ち得ますが、基本的に異民族・異教徒である日本人を重用しないなど厳格な姿勢を貫いたのは、柔軟で融和性に富んだオルガンティノとは好対照でした。
また、オルガンティノは拠点の獲得にも余念がなく、着任の前年には京都に南蛮寺、1580年(天正8年)には織田信長に土地を賜り、安土にセミナリヨを建立し、布教と教育に努めました。
本能寺の変で安土城が焼かれた際に同地のセミナリヨが放棄された際には、豊臣秀吉から大阪の土地を与えられ、後には親交のあった高山右近の領土である高槻に設置しています。
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日本で多くの民間人、武士の信徒を獲得したオルガンティノでしたが、彼に大きな苦難が押し寄せてきます。
1587年(天正15年)に発令された、初の禁教令です。京都の南蛮寺は破壊され、明石の領土を放棄していた右近と共にオルガンティノは小西行長の治める小豆島へ逃れ、京都の信徒を導くこととなりました。
その後、加賀へ向かった右近と別れたオルガンティノは九州に身を寄せ、1591年(天正19年)に帰国した天正遣欧少年使節と共に秀吉に拝謁した際、前田玄以の仲介で再び京都在住を認められました。
しかし、6年後に日本人・外国人を合わせて26名の信徒(日本二十六聖人)が殉教する前に京都で信徒らの耳たぶが切られた際、オルガンティノは泣く泣くそれを受け取ったと言います。
オルガンティノは右近や信長、秀吉以外にも多くの著名人から知遇を得ており、明智光秀の娘で細川忠興の妻でもあったガラシャもその1人でした。
1600年に関ヶ原の戦いが起きる前、石田三成の人質にされるのを拒否したガラシャが自邸に放火し、家臣の手で落命した際には焼け跡を訪れ、彼女の遺骨を集めてキリシタン墓地に葬ります。
翌年、妻の死を悲しんだ忠興からの依頼でガラシャの教会葬を執り行ったのも、オルガンティノでした。
1605年(慶長10年)に慣れ親しんだ畿内を離れ、長崎のコレジオ(神学校)へと向かったオルガンティノは、4年後に死去します。享年76歳。
キリシタン国外追放令(これによって右近も国外追放)や天草・島原の乱で日本国内のキリスト教徒は禁じられたにも関わらず、隠れキリシタンとして明治期まで信仰を捨てなかった日本人がいたのは有名ですが、筆者はその一因としてオルガンティノが愛する日本の人々に伝えた教えが生き続けていたのではないかと考えます。
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禁教と追放によって失意のうちに世を去ったオルガンティノでしたが、彼は先述したように日本人に対する偏見を持たなかったばかりか、これほど素晴らしい才能を持つ民は無いと賞賛し、日本人の礼儀正しさや優しい心に対しても褒めた内容の書簡を記していました。
そのオルガンティノが最晩年を過ごしたとされる長崎コレジオは、今もカトリック長崎大司教区の学習施設の名前として、今も司祭を目指す学生の学びの場として存在し続けています。
(寄稿)太田
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