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戦国武将と戦国大名の違い
戦国武将と戦国大名は、何が違うの?、日本における戦国武将と、戦国大名の「違い」に関して、諸説ありますが、出来る限り、わかりやすく解説してみたいと存じます。
まず「武将」と言う定義ですが、武将は、単純に兵士と言う事ではありません。
しかし、武士ではあると言う事になりますが、その武士の中でも「将」として、ある程度の人数を部下にして、部隊を率いる「指揮官」を、武将と呼んでよいでしょう。
もちろん、ひとつの勢力には、そのような指揮官である武将が、何人もいて、その武将の中でも、序列があり、偉い武将、下のほうの武将もいます。
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この武将のことは、部隊の構成により、例えば「足軽頭」「鉄砲頭」として、武将を分類するケースもあります。
そして、戦国時代に生きた武士の武将を、戦国武将と後世になって、呼ぶようになったわけです。
戦国時代の軍事部隊には、全体を指揮する総大将がいて、その下に侍大将がおり、その侍大将の下に足軽大将がいて、その足軽大将の下には、農兵・下っ端の武士などにて構成されています。
それら「将」がつくような身分の武士(侍)が「武将」と言う事でして、上司となる別の武将に仕えていれば「家臣」(かしん)であると言えます。
逆に、その家臣である武将に仕えている武士は「家来」(けらい)とも言います。
部隊長である武将の下にて、直接仕えた武士は、その武将以上へと、出世することが、まずは考えられないので「家来」「被官」(ひかん)と呼ばれるケースが多いです。
鎌倉時代には、御家人に仕えた武士として「郎党」(ろうとう)や、従者(じゅうじゃ)と、呼ばれることも多くありました。
郎党を親戚どおしで構成していたら、一族郎党ですね。
執権・北条家に仕えていた郎党は「御内人」(みうちびと)と、格式ある名称で、呼ばれていることもあります。
戦国時代から江戸時代に至っては、概ね「家来」(けらい)と言って良いでしょう。
ひとりの武将には、何人も武士格(侍)の家来がいて、その家来に足軽・農兵・雑兵が所属していると言う感じです。
概ねですが、家来ひとりに、足軽などが4名前後、従っています。
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ようするに、武士の最小単位としては、戦場で、約4~5名が固まって、動いていたと言う事が言えます。
よく「何騎」と、騎馬数単位で、兵力数を表現する場合がありますが、馬に乗っていたのは、この家来1人のことです。
もし、100騎でしたら、兵士も含めた兵力数としては、だいたい400~500人と推測することができます。
例えばですが、自衛隊の戦車には、戦車長と言うリーダーがひとりいて、他に乗員が2~3名程度の、1両3~4名で構成されています。
すなわち、戦国時代の侍(武士)ひとりに従う農兵などが3~4名いたのに、似ています。
そして、各国により、編成が異なる場合がありますが、自衛隊の戦車部隊は、4両まとめての行動が基本となっているため、4両で「小隊」を組みます。
その小隊長が3つ集まって中隊になり、中隊長が存在します。
この戦車中隊は13両で編成され、中隊長が指揮をとり、中隊本部には、装甲車やトラックなども配備されているため、1個中隊が、戦国時代の1部隊に近いと言えます。
すなわち、足軽大将に近いと言えるでしょう。
戦車大隊は、2個~3個の戦車中隊を指揮しますので、大隊長が、侍大将と言えるでしょうか?
ちなみに、戦国時代の末端兵は、普段は農業しており、軍事に関して教育や訓練など受けていませんので、指揮官の指示がなければ、右に行って良いのか、左に行って良いのかも、わからないのです。
当然、命のやり取りですので「恐怖心」があり、怖くなると、戦場から、逃げ出してしまいます。
そのため、指揮官の能力が、勝敗を左右しました。
また、兵の70%前後は、農業をしていましたので、武田信玄や上杉謙信と言えども、田植えと、稲刈りの時期は、兵を動かすことができませんでした。
田植えと、稲刈りが、できないと、農兵も生活に困ることになりますのでね。
これに対して、織田信長は、岐阜城下に、家臣を常駐させて、農家の次男坊・3男など、家を継げない者を、兵として雇い、1年中、動かせる職業軍人を作りました。
豊臣秀吉の、その兵として雇われた一人と言えます。
戦国大名とは
これらに対して「戦国大名」(せんごく-だいみょう)の定義ですが、もちろん、諸説あります。
ただし、だいたい、下記の通りになるかと存じます。
基本的に、戦国大名は、自分の領地に対して、独自の権限で、統治することができた武将のことを差せると言えます。
具体的には、領地から年貢を取る権利があり、領地内の武将に対して軍役を化し、争いごとがあれば調停するなどの権力を有し、どこにも従属せずに、独自に所領を維持した武将を、大名と呼べるでしょう。
ただ、明確な定義がある訳ではありませんので、一国を統一したら、大名と言う事でもなく、その国内にある地方だけを領有していても、戦国大名と呼べるケースもあれば、常に隣の強敵に従っていて、戦国大名とは、言いにくいケースもあります。
例えばですが、武田家の重臣だった真田昌幸は、武田家が滅んだあとに、独立勢力となった時に、戦国大名化したと言えます。
常陸・小田城の小田氏は、石高こそ、高くはありませんが、周りの強敵に常に対抗して、勢力を維持していたため、戦国大名と言えます。
これに対して、例えば、井伊谷城の井伊家は、今川義元に従っていたあと徳川家康の家臣になりますが、常に、誰かの傘下として従属していたため、戦国大名とは言えませんでした。
しかし、徳川家康に従った結果、重臣へと出世し、関ヶ原の戦いのあと、彦根城を与えらて彦根藩主となっており、大名になったとは言えます。
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このように、戦国大名など、大きな勢力下に属した武将を「家臣」と呼び、その家臣に従っている武士が「家来」であったと言うと、序列も、わかりやすいと存じます。
家臣の中でも権限が強い武将は「重臣」や「家老」と呼ばれたりします。
なお、戦国武将の前には「守護大名」と言う存在がありました。
守護大名(しゅごだいみょう)は、室町幕府・足利将軍が、各国の守護を任命した武将(大名)となります。
下剋上(げこくじょう)にて、その守護大名を倒すのもそうですが、戦国時代に、守護大名から生き残った大名も含めて、戦国時代に勢力を張った大名は「戦国大名」と分類されることになります。
江戸時代に入ると「大名」の区分は、明確に定められて、1万石以上の所領を持っている武将は「大名」と呼ばれました。
例えば、5000石だと大名とは呼ばれず、徳川家の家臣であれば「大身旗本」と呼ばれました。
将軍とは
将軍(しょうぐん)の場合ですが、日本において「将軍」と申しますと、通常は、征夷大将軍(せいい-たいしょうぐん)のことを言います。
そもそも、征夷大将軍は、天皇が任命する官職の事で、最初は奈良時代・平安時代に、当方口法の蝦夷(えみし)を征討のため、官軍の総大将を命じたことに始まります。
坂上田村麻呂などが有名です。
その後、武家の源頼朝が鎌倉殿になると、東方を征伐する職務として、朝廷より、征夷大将軍を得ています。
そして、武家政権を築いたことから、以後は、武家が政権を担う際に、朝廷がお墨付きを与える官職名のような形になり、室町幕府を開いた足利尊氏も、征夷大将軍に任じられました。
征夷大将軍になると、幕府を起こせると言うと、わかりやすいでしょうか?
このように、日本では、将軍と申しますと、征夷大将軍である武将のことを差します。
豊臣秀吉は、出自の身分が低かったため、征夷大将軍になることは失敗し、朝廷の政治を担当する役割である「関白」となって、天下人になりました。
ただし、関白は、公家しか就任できず、武将はとても困難なのですが、近衛前久の猶子となり、関白を手にしていますので、成し遂げられる、その権力は、ある意味、すごいものがあります。
関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、豊臣氏に従属しない立場を明らかにするためにも、征夷大将軍となりました。
なお、もともと、徳川家は、平氏でしたが、武家が征夷大将軍に就任したのは、それまで、すべて源氏だったため、支障があるととして、家系図を、源氏に変更して提出し、就任したことでも、知られます。
そして、将軍は「上様」(うえさま)とも、呼ばれました。
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現在、国会内での投票で選ばれた、総理大臣も、選出されたあと、手続き上は、天皇より「任命」された形をとり、朝廷からも承認を得ています。
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