木村重成とは 冷静さと勇敢・仁愛にあふれた若武者の最後

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木村重成(きむら-しげなり)は、豊臣秀次の家老・木村重茲(木村常陸介)の子として1593年頃に生まれた。
母は宮内卿局、又は右京大夫局とも言われている。
この母が、豊臣秀頼の乳母であった縁から、木村重成(木村長門守重成)は豊臣秀頼の小姓として、幼少の頃より仕えたとされる。

1593年、父・木村重茲が「秀次事件」に連座して切腹。
淀の所領を失い、まだ幼い木村重成も処分されかけたが、幼年であるため許されて、のち聡明さを評価されると豊臣秀頼の小姓、約40人の一人に抜擢されたようだ。


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色白で立ち振る舞いも良く、礼儀作法や言動も粗暴なところが無く、刀・槍・馬術に長けた貴公子であったと言う。

元服した木村長門守重成は3000石となり、豊臣秀頼の全幅の信頼をうけ重要な会議などにも出席。

1599年12月17日には、豊臣姓を与えられている。

やがて、豊臣家と徳川家康が対立路線を強めると、大野治長・渡辺糺らと共に開戦を主張し、片桐且元を大坂城から追い出した。

1614年、大坂冬の陣で初陣を飾った際には「自分は若輩ゆえ戦闘の経験が乏しい。どうか戦闘に際しては存分にお引き廻しお頼み申したい。」と、後藤又兵衛と共に今福砦の攻防戦に参加。
5000を率いて、8000の佐竹義宣相手に対等に戦い、渋江政光を討ち取った。
その際、矢野和泉守正倫、飯田左馬亮家貞と共に、木村重成の部隊の隊長を務めたていた大井某(大井何右衛門)が戦場で倒れているのを発見すると、敵の鉄砲や騎馬の襲撃に対して、自らが殿(しんがり)を務めて、味方に大井某を運ばせたと言い、味方だけでなく敵からも賞賛された。
また、真田丸の戦いにも参加し武名を上げ、真田信繁(真田幸村)、後藤又兵衛(後藤基次)、長宗我部盛親と共に「豊臣四天王」と呼ばれる活躍をしたのだ。

徳川勢に六文銭の旗印を見ると、真田信繁の心中を察して「必ず和議になるから」と、真田信之の代理で出陣していた真田信吉真田信政を、鉄砲で狙撃しないようにくれぐれも間違えるなと兵に命じたとする逸話もある。

和議においては豊臣秀頼の正使として岡山にて徳川秀忠と誓書を交わし、その堂々たる振舞いを賞された。

調印において、高齢であった徳川家康の血判の血のあとが薄く、鮮明では無かったと言う。
それを、若干22歳の木村重成は、直談判した徳川家康をとがめて、もう一度、鮮明な血判を求めたと言う逸話もあり、その度胸を徳川勢の武将も語り継いだとされる。

1615年1月7日、真野青柳(大蔵卿局の姪、真野豊後守頼包の娘)を正室に迎えた。
当時18歳とも19歳とも言われた青柳が、偶然見かけた木村重成に一目ぼれしたとされている。

1615年5月、大坂夏の陣では、豊臣勢主力として長宗我部盛親と共に八尾・若江方面に出陣。
八尾方面には長宗我部盛親が展開し、若江方面は木村重成4700が担当し、藤堂高虎井伊直孝らと対峙した。

若江に進軍してきた藤堂高虎の右翼を奇襲によって破ると、散開していた兵を集めて昼食を取らせ、敵の来襲に備えた。
そして、敵陣へ総攻撃を開始すると、藤堂高虎の敗走を聞いてやってきた井伊直孝5600の軍勢と激戦となった。
井伊家では川手主水らが討死し、井伊直孝自ら馬に乗り陣頭指揮を執ると、木村勢は朝からの連戦の疲れが見え始めて崩れた。
木村重成は家来の制止を振り切って槍を取ると突撃し、討死した。享年23歳。


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井伊家臣・安藤重勝に討たれたとも、庵原朝昌に討たれたがその功を安藤重勝に譲ったとも言われているが、その見事な最期には彦根藩主・井伊直孝も感じ入ったと言う。

井伊家に伝わる伝承によると、井伊家の家老・庵原朝昌(庵原助右衛門)が木村重成を見つけると「木村長門守さまとお見受けした。我こそは、井伊家の庵原助右衛門なり、いざ見参」と、馬で突撃したと言う。
この時、木村重成は既に数箇所傷を負っていたが、力の限り応戦したと言う。
庵原朝昌(庵原助右衛門)の十文字槍が、木村重成の母衣(ほろ)に引っ掛かって水田に倒れたところを、すぐさま庵原朝昌(庵原助右衛門)の家来が駆け寄り、木村重成にとどめを刺した。
現代の戦争でも同様だが、このように、戦いでの武功と言うのは、指揮官が直接敵将を討ち取ったと言う事は少なく、たいていの場合は、家来の活躍がその指揮官の戦功となる。
よって、木村重成を討ち取ったのは、彦根藩主・井伊直孝であると言う場合もある。

討ち取られた木村重成の首を巡っては、安藤重勝(安藤長三郎)が「それがしはまだ功名がないので、その首を頂戴できないか」と申し出たと言う。
井伊家の立場を守るのが自分の仕事で、一騎打ちでの手柄など、どうでもよかった庵原朝昌(庵原助右衛門朝昌)は、首を与える許可を出したが、家来は「それでは後日の証しのために、木村重成の白熊の母衣と、金の捻竹の串」を取って、首を安藤重勝(安藤長三郎)に渡したと言う。

そして、安藤重勝(安藤長三郎)に傍らにあった「薄」(すすき)でくるみ、帯刀と共に井伊直孝に差し出したのである。
徳川家康のもとに首級が届けられた際には、頭髪に香が焚きこめてあったと言う事で、木村重成は討死にを覚悟して挑んだ、稀世の若武者であると称された。

なお、正室・青柳が、夫の愛用の兜に香を炊き込め、別れの盃を交わしたとされ、出陣の際に兜の紐も簡単にほどけない様に工夫されていたと言う。
この時、妊娠していた青柳は、近江の親族の元で男児を出産し出家。
そして、木村重成の一周忌を終えると、青柳(20歳)も自害して果てた。

木村重成の首は、安藤重勝(安藤長三郎)が密かに彦根まで持ち帰り、安藤家の菩提寺であった宗安寺に埋葬したとされ、木村重成の首塚がある。
彦根・宋安寺~木村重成の首塚がある名刹
また、木村重成の墓は大阪府八尾市幸町の公園にある。

青柳が出産した男児は、馬淵家の婿養子となって馬淵源左衛門と称したと伝わる。


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木村重成の家臣は下記の通り。

飯島太郎右衛門(河内国高井田の農民出身だが、若江の戦いで討死)、飯島三郎右衛門、篠原重之(木村重成の弟)、山口弘定(妹婿)、青木久矩、木村宗明(木村重成の叔父で木村主計頭。物頭1000石で木村重成を補佐した。)、内藤長秋(木村重成の番頭で3000石。内藤新十郎とも。母は饗庭局)、牟礼朝泰(讃岐出身で通称は牟礼孫兵衛。700石)

彦根・宋安寺~木村重成の首塚がある名刹
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コメント

  • コメント ( 4 )

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  1. バカ正直

    木村長門守重成の子孫と名乗る人が多いと聞きます。その方たちの記事を見ても、子孫であるという証拠もありません。しかも状況証拠も何もありません。ある方は、先祖の言い伝えだから言えないとも書いてありました。400年も前の話です。今、明らかにしても問題がないと思います。

    木村長門守重成の子孫は何名くらい逃走したのか、誰が逃走したのかも闇の中です。私は大阪図書館にある、1925年著の木村長門守重成の著書を確認したいと思います。又、同市北方町にある多数の木村家も訪問して、何か手がかりの遺品が残っていないか調べてみたいとも思っています。

    同市の苅安賀城(浅井長政の従兄弟の政貞が築城)の事も、関係が有るかもしれません。浅井長政とお市の方の子が茶々です。だから、木村長門守重成の子孫が、この地に逃げ込んだという仮説も成り立ちます。茶々は、たしか尾張の清洲城に逃げ込んだ経験もあります。

    尾張徳川藩の徳川義直が、この地に鷹狩りを2回~3回していたので、そこに逃げ込むのは不可能だと言う人もあります。しかし、家康は大阪夏の陣のあくる年の1616年に死んでいます。ですから、徳川側もそれどころでないと考えます。

    又、私の父親がはっきりと木村長門守重成の子孫だと言ったのは、もしかして本人は死んでいたのではないかもしれません。家康に持ち込んだ首は影武者の首かもしれません。

    家康は謀略が得意の武将ですが、豊臣方もそれくらいは検討したでしょう。歴史の資料も全面的に信用できません。現代でもそうですが昔も、都合の悪いところは隠ぺいするかだましたと思います。しかし、昔の資料を楯にして決めつける人が大勢です。

    しかし、そこら辺を考えて疑ってみること必須です。歴史本の反対側を探ることが真実を探すきっかけになると思っています。

  2. バカ正直さま、ご主張のコメントを賜りまして、誠にありがとうございます。
    そのまま掲載許可させて頂きました。

  3. バカ正直

    このサイトの、新しい記事から順番に閲覧したいと思い探していますが、なかなか見つかりません。見つける方法をお教えいただきましたら幸いです。古い記事に、コメントを入れると管理者の方にご迷惑かと考えてしまいました。又、コメント以外の問い合わせ先のメール表示がないので戸惑いました。よろしくお願いいたします。

  4. 色々とお気遣いを賜りまして、恐縮でございます。

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