北条早雲(伊勢新九郎盛時)~戦国大名の先駆けとなった武将

北条早雲といえば、これまで素浪人からのし上がり、戦国大名にまでなった人物として下剋上を象徴する存在として語り継がれてきた。
ところが、近年の早雲に関する史料の発見や研究により、一介の素浪人ではなく、室町幕府において政所執事の家柄である備中伊勢氏の出生であったことが明らかになってきた。
すなわち高級官僚の家系だったということだ。
だが、早雲が成し得た業績はこれまで通説とされてきた素浪人からのし上がって戦国大名にまでになるといった英雄伝説を生むに相応しいものであったことも事実である。
この度は、日本の戦国史上において初の戦国大名となった北条早雲(伊勢新九郎)の実像に迫ってみたい。


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北条早雲

北条早雲-ほうじょうそううん-諱・盛時-もりとき-
別名(本名)・伊勢新九郎・盛時-いせしんくろう・もりとき-
生誕・1432年(永享4年)と1456年(康生2年)の説があり、年月日は不明/死没・1519年9月8日(永正16年8月15日)
近年における研究により、これまで戦国大名となるまでの早雲の出生は謎に包まれてたのだが、史料に残る伊勢新九郎なる者と同一人物であることが明らかになったこともあり、早雲の備中伊勢氏の出自である説が有力となっている。

高越山城

北条の姓は早雲存命中には称してはおらず、嫡男である北条氏綱より用いられており、史料としても1491年(延徳3年)までは伊勢新九郎、あるいは伊勢盛時の名で残され、1495年(明応4年)より早雲庵宗瑞-そううんあんそうずい-という法名として記されている。

応仁・文明の乱~そして僧となった伊勢新九郎

1467年(応仁元年)に室町幕府の管領であった畠山氏と斯波氏の家督争いに端を発する応仁の乱が勃発する。
この頃、新九郎は室町幕府第8代将軍・足利義政の弟である足利義視-あいかがよしみ-に仕えていた。
後に戦国時代の到来する要因の一つともされるこの争いは、やがて細川勝元・山名宗全らの勢力争いから将軍・足利義政の後継者問題をめぐる争いにまで拡大していき、全国的な戦乱となる。
この事態に当時宮仕えをしていた新九郎のいる京都は壊滅的な被害を受けており、多くの民たちがその犠牲になっていた。
しかし、苦しむ民たちに将軍・足利義政も、主である足利義視も自らの保身ばかりを優先し領民たちに手を差し伸べることはなかった。
1477年(文明9年)まで11年続いたこの内乱は収束後にも各所に大きな被害をもたらし、幕府もその例外ではなく権力・政治力を維持する勢力も著しく低下することとなった。
一連の一部始終を、その勢力下で目の当たりにしていた新九郎は、家柄も現在の地位も、そして俗世も捨て去り僧となるのだった。

今川家の家督争い

伊勢新九郎が本格的な歴史の表舞台に登場してくるのは、駿河の守護大名・今川義忠の死後のことである。
新九郎の姉、または一説には妹が北川殿であり、今川義忠の正室でもあったとされていて、その嫡男には後に今川氏親となる龍王丸がいた。
しかし、まだ幼い龍王丸には当然駿河を治めることはできず、名代として小鹿範満が実権を握っていた。
その頃仏門に入り禅の修行をしていた新九郎は、俗世に戻り幕府の申次衆の職に当たっていた。


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今川家の家督争いが起こっている駿河に新九郎は赴き、龍王丸が国を治めることができる年齢になるまで小鹿範満に守護は任せるという形で一旦は騒動を落ち着かせるが、数年後、龍王丸が成人(15歳)してもなお、範満は家督を返上することはなく権力を振りかざしていた。
この事態に幕府の奉公衆となっていた新九郎は再び駿河に下向し、小鹿氏への不満分子を従え、小鹿範満と弟の孫五郎を討ち取り、龍王丸を今川家当主に据えることに成功する。
その後、元服した龍王丸は今川氏親を名乗る。
あの今川義元の父となる人物である。

戦国期の幕開け

新九郎は小鹿範満を討ち今川家の騒動を収めた功績により居城(興国寺城)を与えられ、その後も卓越した戦略と戦術により武功を重ねてゆく。
1493年(明応2年)新九郎は、伊豆・足利館を襲撃し、足利政知の子であり第11代将軍・足利義澄の異母兄にあたる茶々丸を討ち取り、伊豆を奪うことに成功する。
この一件は伊豆討入りと称され、これにより世は悪政を敷き民を苦しめていた旧勢力が一掃され新興勢力が勃興していく下剋上の大勢へと傾いていくのであった。
また、伊豆討入りの際、茶々丸は逃亡しており数年にわたり抵抗をみせるが、1498(明応7年)に新九郎は茶々丸を討ち取り、伊豆を平定したとする史料も残されている。
伊豆韮山城を居城に据え、伊豆を治めた新九郎はこれまで横行していた兵による領民への略奪行為などの乱暴狼藉を厳しく禁じ、重い税の取り立てを撤廃し、四公六民という収穫の四割が租税で六割が収入となる制度を定めた。

韮山城からの展望

また、伝染病などの病に苦しむ民たちにも手厚い看護を施すといった善政を敷いている。
無論、これまで茶々丸による悪政に苦しめられていた領民たちは歓喜し、新九郎を慕い従うこととなる。
伊勢新九郎の名はその後1495年(明応4年)以降の史料には「早雲庵宗瑞」という法名として登場している。

小田原城の奪取・相模国の平定

一国の主となった新九郎は、着々と国力を増強していく。
関東への進出を計る新九郎は小田原にて、相模国の小田原城・城主である大森藤頼を巧みな戦法で油断させ、警戒を解き小田原城を奪取することに成功する。
親交を深めるような書状や貢物を贈り、城主を信用させたところで新九郎はある日「鹿狩りをしていたら鹿が小田原に逃げて行った、申し訳ないが獲物を伊豆へ追い返すため小田原城の裏手に勢子(狩を行う際に動物を射手のいる場所まで追い込む役割の者)を入れさせてはいただけないだろうか」との書状を送る。新九郎のことをすっかり信用していた城主は、快くこれを承諾したのだった。
そして新九郎は勢子に扮した精鋭数百の兵を箱根山から、小田原城の裏手へ差し向けた。

小田原城

その夜、別の一体が城に火をかけ攻め入るのを合図に、勢子に扮して伏せていた裏手の兵も火を放ち一気に攻め込む。
こうして新九郎は不意を突かれ大混乱に陥る小田原城を陥落させ、城主である大森藤頼は命からがら逃亡したという。
この新九郎が小田原城を落としたのは1495年(明応4年)9月とされているが諸説あり、史料により異なる場合がある。
また、大森藤頼を油断させ、鹿狩りを理由にして城へ攻め入り陥落させたという逸話も現代では創作であると考えられている。

しかし、新九郎の伊豆や小田原を勢力下に収めるまで、このような見極めや手腕が、奇襲戦「火牛の計」など、色々な逸話を残すことに繋がったことは確かであろう。
有力とされている説は、関東官僚の山内上杉家と扇谷上杉家の争いである享徳の乱の渦中にあった上杉朝良から小田原城を譲り受け、軍事的支援を行ったということだ。
これにより新九郎は相模国の西半分を勢力下に収めることとなった。
だが、1504年(永世元年)立河原の戦いで関東管領・上杉顕定と足利政氏の連合軍に勝利した上杉朝良や新九郎らの連合軍であったが、上杉顕定はその後、弟である越後守護・上杉房能、守護代・長尾能景の援軍と反撃を開始する。
そしてついに上杉朝良は山内上杉家に降伏し、新九郎は関東管領・山内上杉家と扇谷上杉家を敵にまわすこととなる。
この事態に早雲はまず、統治している国の増強と、国力安定の基盤を整えることに専念する。
まず検地を行い田畑からの収穫量の把握し財政の基礎を築き、さらに城下町を整備し商工業の発展にも取り組み、領民たちが自由に商いができるよう取り計らった。
領民に無理な税収を強いることなく、現金での収入を増やし、軍備を整えていった。
1512年(永正9年)新九郎は岡崎城、そして住吉城を落とし、ついに1516年(永正13年)には、相模国の全域を平定するまでに至る。


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幕府からの独立

1518年(永正15年)新九郎は朱印状を発給した。
室町幕府の支配から独立し、事実上、自らが統治する国の政治を行っていくという独立宣言である。
ここに日本初の戦国大名が誕生した。
同年、新九郎は嫡男の氏綱に家督を譲り、翌年の1519年(永正19年)死去している。
享年はこれもまた諸説あり、64歳とも88歳であったとも云われる。
氏綱に家督を譲ってから死去するまでの間、伊勢新九郎は余生を伊豆国・韮山にて静かに送ったと云われている。
新九郎の館からは富士山を臨むことができ、富士山を覆うように流れる雲を眺め、新九郎は自らを早雲と名乗るようになったという。

(寄稿)探偵N

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