魚津城の戦い
戦国から新たな時代への幕開けとなる1582年は、ご存じの通り様々な出来事が起こった年です。
武田家の滅亡、本能寺の変、天王山の戦い、清州会議。
これらのイベントと直接関係はありませんが、関ケ原の戦いで徳川家康方の東軍に寝返った小早川秀秋の生誕年でもあります。
この年の越中国(富山県)では天下統一に向けて快進撃を続けていた織田家と上杉家との間で激戦が繰り広げられていました。
当時の上杉家は他国を攻める余裕はなく、身内の争いや家臣の反乱によって国内は疲弊していましたが、織田信長に攻められていた盟友の甲斐国(山梨県)・武田勝頼に可能な限り援軍を送り、上杉家の家風である「義」の精神を貫いていました。
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しかし天目山の戦いで武田勝頼を滅ぼした織田信長は次の標的を上杉家に定め、関東、北陸、甲信越の三方向から上杉家への侵攻を企てます。
さらに東北地方の伊達家、蘆名家や上杉家の家臣・新発田重家にも密書を送り、上杉家を後方から攻めるよう要請します。
ここまで多くの敵に包囲された当主・上杉景勝はどの敵に接していいのか分からず錯乱状態に陥ったことでしょう。
そのような中、織田信長の家臣・柴田勝家、前田利家、佐々成政ら名将に率いられた北陸勢は上杉家の拠点である越中国・魚津城を包囲しました。
時に1582年3月11日、織田軍の兵力は約4万人(諸説あり)、上杉軍は約3千人(同)。
織田軍が本気攻めをすれば、数日で勝敗が決する兵力の差でした。
魚津城の上杉軍は中条景泰をはじめとする十三将が率いて頑なに抵抗しました。
魚津城は典型的な平城です。
平城は大軍勢の入城、政治・経済活動を行う拠点として適していますが、戦いには不向きの城であり包囲されれば補給は途絶え、援軍なしでの勝利は難しいと言われています。
圧倒的不利の状況下でも中条たちは奮戦しますが、戦いが始まった約1か月半後の4月23日に家老の直江兼続あてに救援を要請します。
主君・上杉景勝ではなく、直江兼続に書状を宛てた点も特徴的で、直江兼続が上杉景勝の最側近だったことが想像できます。
書状を受け取った直江兼続は主君・上杉景勝と相談し、四面楚歌状態の中、5千人の軍勢を引き連れて魚津城救援に赴くことを決定します。
ここでも迷いなく「義」を重んじる上杉家の有言実行の姿勢を見ることができます。
来援を知った中条たちをどれだけ勇気づけたことでしょう。
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上杉景勝率いる上杉軍は5月15日に魚津城近くの天神山城に着陣しますが、その間に奮戦してした魚津城は二の丸を落とされ、弾薬も尽きた落城寸前の状況に陥っていました。
来援によって首の皮一枚つながっていた魚津城でしたが、このタイミングで上野国(群馬県)から織田家の滝川一益、信濃国(長野県)から森長可が越後国に侵攻する動きを見せ始めました。
上杉景勝は苦渋の決断の末に天神山城からの退陣を決定し、5月26日に越後国に帰国しました。
援軍の出現によって織田軍に警戒心を与えたことで落城寸前の魚津城は一時的に持ちこたえましたが、根本的な打開策を見出すことに至らず、今後の援軍の望みを絶たれた中条景泰ら魚津城の武将たちは上杉景勝の開城命令を聞かずに6月3日に自刃し、魚津城は落城しました。
まさに「義」を家風とする上杉家の家臣らしい最期でした。
中条ら十二将は耳に穴をあけ、自身の名札を通して誰か分かるように自刃したと言われています。
しかし落城までの間に一大イベントが発生しています。
かの有名な「本能寺の変」です。
6月2日早朝と言われていますので、魚津城落城の前日です。
魚津城を落とした織田軍が本能寺の変の報告を受けて退陣したのは6月5日。
本能寺のある京都府から魚津城の富山県までの伝達に2~3日かかっていた計算になりますので、現在のような通信手段があったらどうなっていたのか想像してしまいます。
また織田軍が5月中に魚津城を落とし、混乱中の越後国に侵入・制圧していたことを想定すると、魚津城の奮戦は上杉家を窮地から救い、存続に導いた戦いと言えます。
さらに上杉家からすればもう数日間、魚津城が持ちこたえていたら将兵は助かっていたという気持ちがあったかもしれません。
その後の上杉家は豊臣秀吉の信頼にされ大老の位に上り詰めましたが、「関ケ原の戦い」で米沢に移封となります。
江戸幕府下では米沢藩として栄え、明治維新後に華族に列せられました。
山形県米沢市の上杉博物館には上杉家ゆかりの古文書や歴史資料が数多く収蔵されており、常設展を見学することで上杉家の家風を感じることができます。
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魚津城の戦いは、歴史ドキュメンタリーやドラマ等で紹介されることが少ないのですが、2009年に放映した大河ドラマ『天地人』の第17~19回で当時の情勢や戦いの様子、上杉景勝・直江兼続の苦悩を分かりやすく描いていますので、機会がありましたらご覧ください。
(寄稿)ぐんしげ
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