シャムの英雄・山田長政の雄姿を見よ!

山田長政

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島国と揶揄されがちな日本だが、実は歴史的に見て立派な海洋国家である。古代遺跡を見ても、縄文時代にマグロを採って食べていた跡が見られるし、中世においては平清盛の日宋貿易に代表されるように、海外との交流は活発であった。

しかし、もっとも日本人が他国の民族や文化、宗教に触れ、貿易などで実利を得ていた時代は、戦国時代中期から、江戸時代初期の頃ではないだろうか。徳川家光が鎖国政策を開始して世界との交流を閉じるまで、多くの日本人が東南アジアをはじめとする海外諸国へ渡航し、日本人だけが住む日本人町が築かれた地域もあった。

シャムの英雄と呼ばれる山田長政。彼もまた、若き頃に気高き志と壮大な夢を抱いて海を渡った日本人のひとりである。

 

海外日本人の活躍

長崎の出島以外、海外との貿易を禁止した江戸時代も、徳川家康の時代は朱印船貿易で東南アジアから鉄砲や火薬の原料、硝石などを輸入し、それに伴う商人の交流も活発に行われた。

単に貿易で稼ぐ商人だけでなく、海外に行ったきり、そのまま定住する者も多かった。やがてそこは“日本人町”とよばれ、ちょんまげを結い刀を差した日本武士がさかんに闊歩するようになる。

もっとも日本人の人口が多く集まり、長い歴史を築いてきたのが、フィリピンのルソン島である。寛永5年(1708年)に来日したイタリア人商人の話を聞きまとめた新居白石の『采覧異言』によると、マニラ郊外に約3,000人の日本人が身を寄せ合い、日本人の衣服や生活習慣、風俗そのまま、現地に溶けこんで生活していたという。

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ルソン島マニラ以外にも、マカオやマレー半島中部東岸のバターン、マラッカ、ハノイ、カンボジアのプノンペン、タイと、「日本人による日本人の町」が東南アジアの各地に誕生していった。そして、本コラムの主人公・山田長政は、シャム(現・タイ)において、地方都市の軍司令官というポストを国王から授かり、英雄の名に恥じない功績を残すのである。

 

山田長政の生い立ち

山田長政の素性について、はっきりとしたことは分かっていない。 生まれの国も、駿府国と言われたり、駿河と言われたり、あるいは伊勢の生まれという説もあり、さまざまな説が取沙汰されている。駿河国沼津城主・大久保治右衛門の駕籠舁き人足、その後駿府馬場町商家の丁稚奉公に入っていた事実だけは確かなようである。

駕籠舁きも商人も職人もやってみたが、どれも長続きしなかったらしい。青雲の志を抱く彼にとって、利にあざとく動き回る商売や、堅苦しい職人の仕事は性に合わなかった。そろばんではなく槍や刀をもって大暴れし、一国一城の主を夢みる昔ながらの武将肌であった。

残念ながらその当時はすでに徳川の世となり、人々は太平を謳歌していた。そんな刺激も少なく窮屈な世の中に背を向け、長政は海外雄飛を志す。ここから武士として生きたかった男の、壮大無比なヒストリーがはじまる。

 

シャムで破格の待遇を受ける

長政が渡った頃のシャムの首都は、アユタヤにあった。当時、名君と呼ばれるソンタム王の時代で、長政はソンタム王の厚い信頼を得て日本義勇軍の総司令官の役に任じられた。 当時のシャムは、内外で多くの紛争を抱え、戦の絶えない情勢にあった。数百人の日本軍兵士から構成される日本義勇軍は、関ケ原の戦いや大阪の陣で活躍した武士浪人たちが顔をそろえる精強な軍隊で、普段は貿易商として活動する彼らは、ひとたびシャムで戦が起こると国王の依頼で軍を編成し、勇敢に戦ったのである。

当時の模様を、アユタヤのオランダ商館長ヨースト・スハウテンが次のように日記に書き残している。

「国王の水陸両軍の有力なる兵員は、諸侯と国民とより成り立っている。モール人、マレー人、その他少数の外国人も混成しているが、その中でもとりわけ五六百人の日本人は、主力となる兵員で、周辺の国々からもその勇猛果敢なる精神を高く評価され、国王からは尊敬すらされている」

長政は日本義勇軍の将軍として破竹の活躍を続け、元和7年(1621年)にはオーク・クン(少尉・中尉級)、寛永元年(1624年)頃にはオーク・アロン(大尉・少佐級)、さらに寛永3年にはオーク・ブラ(大佐級)に、寛永5年頃には、軍人の中では最上級の位であるオーク・ヤ―(大佐級)に昇進。陸軍大臣を除いては、シャム国の中でもっとも偉い軍人にまで上りつめたのである。

 

シャム国王の後継者争いに巻き込まれる

国民の信望厚かったソンタム王も、後継ぎを決めないまま、逝去する。それによって国政の実権を握り、血みどろの権力闘争を招いたのが、国王の従弟だったオークヤ・シーヲラヲングである。

後継ぎには、彼の推すソンタム王の王子・ジェッタが王位につく。ジェッタは当時まだ15歳で、国政を司るほどの力量はない。そこでオークヤ・シーヲラヲングが後見人となって実権を掌握したのである。

国王の後見役として意のままに権力を振るうオークヤにとって、何と言っても邪魔な存在は長政であった。宮中の大臣は誰もオークヤの顔色を窺って意見を言わないのに対し、長政だけは敢然とオークヤの暴政に異を唱え、サムライの矜持を見せた。さすがのオークヤも、シャム国民の人気が高く、絶大な勢力を誇る長政と真っ向から対立するのは賢い選択ではないと考えた。

そこでオークヤは計略を巡らす。アユタヤから遠く離れた地方の分国へ「不穏分子の鎮撫」という名目で長政の派遣を決定。そこはマレー半島東岸に位置するリゴールという地で、地政学上、他国と国境を接する重要拠点であった。

かくして長政は外国人でありながら、シャムの要衝の地・リゴールの総督となったのである。戦国時代で言えば、一国の領主になったと考えていい。

 

非業の死

オークヤの狙いは、目の上のたんこぶである長政を遠い僻地に追いやることで、宮廷で思いのままに権力を振るうことであった。この小賢しい日本人さえいなくなれば、自分に逆らう者は現政権においてひとりもいない。そんな陰険な野望と計算が権力者の中で働く。

また、長政が赴任したリゴールという場所は、現地住民が不穏な動きを見せ、いつ反乱が起きてもおかしくない情勢であった。つまり、統治の難しい領地にあえて赴かせ、反乱軍との衝突であわよくば長政が戦死することを願っての計略であった。

しかし、そんなオークヤの企みをあざ笑うかのように、長政率いる日本義勇軍はリゴールで起きた反乱もあっさり鎮圧してしまう。これまで誰も平定できなかった地域を、長政はやすやすと征服したのである。

オークヤにとって、長政はいよいよ葬らねばならぬ存在に映った。このまま彼の武名と業績、栄誉が拡大し、その名が天下に鳴り響けば、自分の地位は安泰ではいられない。 オークヤは、手柄を立てた長政を宮殿に招き、美女や豪華な食事、酒をふるまっておおいにもてなした。長政は、ふるまわれたワインに毒が入っていることに気付かず、それを口にしてあえなく息絶えた。

41歳の若さであった。

 

息子・オインとその後のシャム

長政の最期については、諸説ある。戦傷への膏薬と称して塗られたものの中に毒が入っていたという話も伝えられており、真相は定かではない。いずれにしても、長政はリゴールの総督になった1年後の1630年頃に亡くなったと考えられる。

長政は、シャムに渡って高位高官に上りつめても、祖国日本を忘れなかった。アユタヤ朝へは江戸幕府からたびたび使者が派遣されていたが、長政は江戸の使者を丁重にねぎらい、幕閣の土井利勝へも書簡や金品、重宝などを送った記録が残されている。 また、寛永3年には、駿府にある浅間神社に戦艦をあしらった絵馬を奉納している。残念ながら天保8年の火災で焼失してしまったが、その写しが今でも大切に所蔵されている。

長政の死後、リゴールとシャムの情勢はどうなったかー。 リゴールの総督は、長政の遺子・オインが継いだ。しかし、政敵の謀略にはめられ、失脚。長政時代は団結力の強かった日本義勇軍も、内部紛争や派閥争いが絶えなくなり、オインがその一部を引き連れてカンボジアへと亡命することになる。

カンボジアで歓迎されたオイン一行だが、折り悪く国内では老王とその長子が王位をかけて争う難事が発生。オインは名将で知られたあの山田長政の忘れ形見である。老王側にぜひ、と協力を頼まれ、先頭きって戦った結果、勇敢に散り果ててしまうのである。

長政の去ったあとのアユタヤの日本人町では、殺された長政を慕う日本人たちの復讐を恐れたオークヤによる弾圧の憂き目にあい、ある者は抵抗して戦い、ある者は国外へ逃亡するなど、混乱の様相を呈した。国王の号令のもと、日本人町の再建が図られるも、かつての隆盛を取り戻すのは難しく、次第に衰退の一途を辿った。

そして、日本で発布された鎖国令が決定的となり、完全に母国との連絡通路が途絶。日本との貿易による生計が成り立たなくなり、アユタヤから完全に日本人の姿が消えてしまった。

残念ながら、日本人で山田長政のことを知る人は少ない。しかし、タイ国内ではもっとも有名な日本人として、その偉業が多くの国民の間で称えられている。

(寄稿)筑後守只人

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