簗田政綱 桶狭間の戦いで信長から最も評価された武将

簗田政綱

簗田政綱(やなだ-まさつな)は、戦国時代の武将で、生年や没年は不詳ですが、尾張の戦国大名織田信秀に仕えていました。
初めは尾張守護・斯波義統の家臣でしたが、のち織田信秀に仕えると九之坪城(愛知県北名古屋市)を与えられました。
梁田広正と書く場合もありますが、梁田広正は子供の名前ともされています。
1559年、領内に十所神社を建立しています。
1560年、桶狭間の戦いで、籠城を唱える家臣が多い中、織田信長が討って出る奇襲に簗田政綱は賛成したとされます。
そのため、秘かに今川義元の本陣を調査して、織田信長の本陣へ報告させ、更には田楽狭間にいた今川勢の裏手に回り奮戦したとも言います。
蜂須賀正勝と簗田政綱の2人が調べるようにと命じられたともあります。


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兵力的にもピンチだった織田勢でしたが、今川勢の本陣を急襲すると、服部小平太が今川義元に最初に槍を刺し、毛利良勝(毛利新介)が、今川義元の首を挙げ、見事、桶狭間の戦いにて大勝利を収めます。

戦後の論功行賞では、誰もが、毛利良勝(毛利新介)が一番の手柄と推測していた中、織田信長は、最大の功労者として、簗田政綱の名を最初に呼びました。

いくら、敵の大将の首を取るにしても、その居場所がわからないことには、ピンポイントで攻められません。
約2万5000もの大軍が、桶狭間にて陣を構えている場合には、1箇所だけではなく、何箇所にも部隊が分かれています。
その2万5000人の中より、確実に、今川義元がいる場所を突き止める。
そして、正確な情報を自陣に伝えると言う「情報収集」ができなければ、桶狭間での織田家の勝利はなかったのです。
これが、分かっていた織田信長ですので、最大の手柄は簗田政綱だとしました。

もちろん、簗田政綱が自ら動いて、敵陣を調べたとは考えにくいです。
恐らくは、今川本陣にいた旧知の仲のような者がいて、場所を知らせてもらったりしたのでしょう。


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戦争は情報収集して、敵がいま、どこにいるのか?、把握できないと、戦略も戦術も役に立ちません。
太平洋戦争のとき、日本海軍がミッドウェー海戦で負けた際にも、敵空母の位置がなかなかつかめず、逆に敵は日本よりも早く日本艦隊の位置を把握しました。
すなわち、早く敵を発見できたほうが、先手を打つことができた訳でして、日本は空母4隻と優秀なパイロットを失う事になりました。
その情報収集能力が、勝敗を分けたと言っても過言ではありません。

簗田政綱は、加増されて3000貫文となり、沓掛城(くつかけじょう)と、出羽守を与えられています。

その後、簗田出羽守政綱の動向はあまり知られていませんが、1570年年の浅井長政攻めでは、簗田広正と言う、子供と考えられる武将が、近江・小谷城からの撤退時に殿軍(しんがり)を務めています。
そのため、この頃までに梁田正綱は死去したか、隠居したものと推定されます。
ただし、このあたりもよくわかっておらず、柴田勝家のもと北陸方面で活躍した可能性もあり、1575年、加賀一向一揆を鎮圧すると簗田家は加賀・天神山城へ移ったようで、沓掛城には織田信照、そのあと川口宗勝が入っています。

なお、その後、加賀一向一揆の再び盛り返すと、大聖寺城へ退却を余儀なくされたため、簗田政綱は安土城に呼び出されて、蟄居になったともされています。
この場合、簗田政綱が死去したのは、1579年7月20日ともされます。


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いずれにせよ、歴史上の話では、ほとんどすべてにおいて、諸説ありますので、念のため、明記させて頂きます。

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